弘山晴美と加納由理 ブログ | 加納由理オフィシャルサイト

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パンダブログ

2016年4月13日

弘山晴美と加納由理
先輩である弘山晴美さんの後を追う加納由理

最も影響を受けたランナー

弘山晴美の実績

22年間の競技生活の中で、私が一番影響を受けたランナーは弘山晴美(ひろやまはるみ)さんです。

資生堂時代の大先輩で、オリンピックも1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピック、2004年アテネオリンピックと3大会連続でトラック長距離種目の代表になられています。

また世界陸上選手権にも通算4回出場しており、1999年世界陸上セビリア大会では女子10000mで4位入賞するなど、合計3種目で8位以内の入賞を果たしています。

初めてみた弘山晴美

私が晴美さんの走りを生で見たのは2000年シドニーオリンピックの選考会だった「大阪国際女子マラソン」でした。私はまだ学生でした。

晴美さんは序盤から積極的に集団を引っ張り、終盤の37Km過ぎにはスパートを仕掛け、40Km地点ではリディア・シモン(ルーマニア *のちのシドニーオリンピックでは銀メダル)さんに10秒以上のリードをつけましたが、シモンさんの驚異の追い上げで、ゴール直前で追いつかれ逆転されてしまいました。

結果、晴美さんは2時間22分56秒という世界歴代9位(当時)、日本歴代3位(当時)の好記録でゴールしながらも、優勝したシモンさんにわずか2秒差で2位と敗れたことによりマラソン日本代表に選出されることはありませんでした。

私は晴美さんの力強く、かつ人間味のある走りに憧れを抱き、「この人と一緒に走りたい」と思いました。そして、そのレースの1年後に実際に晴美さんと同じチームの資生堂に入社することになります。

雲の上の弘山晴美

トラック種目からマラソンまで

大学卒業まで22年間過ごした関西を離れ、資生堂ランニングクラブの拠点である東京都の渋谷区に移ってきました。

同じチームは言え、入社当時は雲の上の存在に思えたので、同じグラウンドで練習していても、一緒に遠征へ行っても緊張して、まともに会話なんて出来ませんでした。

人見知りな私ですが、流石に親しい人とはよく話します。半年経った頃から徐々に晴美さんとも話せるようになってきて、同じ関西地方の出身であったり、同じ種目10,000mを専門にしていたこともあり、一緒にレースに出ることも多いこともあって、本当に可愛がってもらい、仲良くさせていただきました。

当時、晴美さんは10,000mのベストタイムが31分22秒、マラソンが2時間22分56秒でした。当時の私からするとまだまだ遠い存在でした。それでも、いつも近くで見ていたからこそ、自分もトラック種目からマラソンまでをマルチに活躍できる晴美さんのような選手になりたいという思いが年々強くなっていきました。

憧れの存在が身近なところにいる意味

2004年横浜国際女子駅伝

入社して3年くらい経った頃から、これまでは練習はほとんど一緒にすることはなかったところから、合宿などで一緒に練習する機会が増えてきました。

2004年の横浜国際女子駅伝では同じ日本代表のナショナルチームメンバーに選出されました。私はナショナルチームで走るのはこの時が初めてで緊張していました。その上、調子が今ひとつ良くなくて不安要素を抱えていたのでした。

資生堂で同じチームだということもあり、大会期間中の3日間晴美さんと同じ部屋で過ごすことになりました。晴美さんから何か特別な言葉をかけられたわけではないのですが、普段と変わらない時間を過ごせたことで、私の緊張はほぐれていきました。そして、結果的には、調子が良くない中でも日本代表の日の丸に背中を押してもらい、4区を区間2位で走り切ることが出来ました。

ハイレベルなトレーニング

これまでは練習をしっかりとこなすことを考えた走りが多かったのですが、一段上のレベルを目指すために、晴美さんについてレースペース(2,000m6分切り等)の練習をすることもありました。

食生活にも気を配る

晴美さんはトレーニング以外でもすごく身体に気を遣っていました。アメリカのボルダーで合宿した時に、アメリカはまだ日本に浸透していない珍しい野菜も多くあるのですが、コリアンダー(日本語はパクチー)をはじめて食べたきっかけも晴美さんに勧められたかでした。晴美さんから「体内の毒素を排泄する」効果があるから食べたほうが良いと言われ、食べてみたらあまりの癖の強い風味に「うぇ〜」となってしまったことを覚えています。今は、すっかり抵抗がなくなり食べれるようになったが、晴美さんに勧めてもらわなかったら今でも食べれなかったかもしれないです。

速さだけではない強さ

一緒に過ごす時間により私生活での意識も変わってきて、一人ではできないかなり質の高い練習を晴美さんと一緒に出来たことで自信もついてきました。晴美さんはただ「速い」だけではなく、「強い」という言葉の似合う人でした。その影響を受け私も10,000mのレースでも5,000m以降中だるみする癖がなくなり、私はアメリカの10キロのレースで優勝したり、10000mの自己記録を31分53秒まで縮めることが出来ました。

弘山晴美から受けた数々の影響

資生堂ランニングクラブのカラー

当時の資生堂ランニングクラブは、私よりもお姉さんの選手が多く、私は入社6年目の2006年、全日本実業団女子駅伝で優勝した時、28歳の私が中堅くらいでした。晴美さんに限らず、選手それぞれが競技に対しての意識が高く、目標に向かい、お互いを応援し合うというカラーが当時の私にはすごく合っていたように思います。

私がトラックとマラソンの両方にこだわった理由

その中でも特に晴美さんは私より10歳年上で、30歳からでも自分の努力次第では一線で戦えるということを、目の前で見せてくれました。それがあったからこそ私は、20代はトラック種目でマラソンへの土台を作り、30代でマラソンを中心とした競技生活ができたのだと思います。

2007年4月以降は、チームが別々になり一緒に練習する機会はなくなりましたが、レースやプライべートでは、変わらず可愛がっていただきました。貴重な競技生活のうちの6年間、私がマラソンデビューするまで練習から生活面まで近くで勉強させてもらいました。

感謝

型にはめることをせず、常に競技に対してクレイジーなまでに一生懸命な姿が本当にかっこよく見えました。共に厳しい練習を乗り越え、共に喜びを分かち合うこともできて、本当に良い時間をたくさんもらえたと思っています。晴美さん、本当にありがとうございます。大好きです。


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