2022月02年03日
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大の影響で、1年延期になった東京オリンピック。
1964年東京オリンピックから56年、ここに合わせてきた選手も多くいると思います。
今から12年前の2008北京オリンピックで、学生長距離で44年ぶりに現役学生で代表になった選手がいました。今回対談させていただく竹澤健介さんです。
これからトップを目指す選手、アスリートを育てる選手、そして、ビジネスで活躍する方にも、参考になる内容になっています。
もちろん、竹澤さんのファンの方も。
沢山の方に、読んでいただけると幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。
※この対談は、2月4日に行ったものです。
竹澤健介さんプロフィール
1986年兵庫県生まれ。
全国中学選手権の1500m、3000mで入賞。報徳学園時代は高3のインターハイ5000mで8位入賞、全国高校駅伝で4位に入賞などの成績を残す。
早稲田大学時代は、2007年に5000mを13分19秒00、10000mを27分45秒59で走り、日本学生記録を更新。
2007年大阪世界選手権10000m、2008年北京オリンピック5000m、10000mの代表に選出される。
2008年の箱根駅伝では区間賞を獲得。早稲田大学を往路優勝に導く。
卒業後はエスビー食品株式会社に入社し、2010年日本選手権の10000mで初優勝。
2013年末エスビー食品廃部後、同年7月に住友電工に入社。2014年元日ニューイヤー駅伝で初出場を果たす。
2016年のシーズンを以て引退。
2019年4月より、大阪経済大学陸上部長距離ブロックヘッドコーチ就任。
竹澤さんと私の関係性
加納:今日はよろしくお願いいたします。はじめに、今日は「さん」ではなく、普段の呼び方の「くん」で呼ばせていただきますね。
今日は対談なので、普段のだらだらモードが出ないように気を引き締めていきます。
初対面は、2006年の国際千葉駅伝で、竹澤君が早稲田大学の2年生の時でしたね。
竹澤:そうですね。出身が同じ兵庫で、地元が姫路と高砂で近いって話ましたね。
加納:2009年の香港での東アジア競技会や2010年の広州アジア大会も一緒でしたね。
今日は改めて、竹澤君の競技人生を振り返りたいと思っています。
輝かしい実績の裏の話とか、出せるところまで出してもらえたらなと思っています。
もちろん、竹澤君の今後の展開も伺います。
どうぞ、よろしくお願いいいたします。
早稲田の竹澤健介
箱根駅伝では、大学2年2区区間賞、3年3区区間賞。(写真提供:”ekiden@photos”/(Makoto OKAZAKI))
加納:竹澤君は、箱根駅伝を走っていた頃の「早稲田の竹澤」のイメージが強いような感じがします。
自分ではどう感じていましたか?
竹澤:確かにそう言われますね。
加納:箱根駅伝での活躍もすごいけど、個人的にはトラックでの5000mと10000mの学生記録ってのがインパクト大きいんですよね。
今日は、竹澤君の競技人生を踏まえた上で、いろんな角度からの話を聞きたいです。
早速ですが、竹澤君にとって箱根駅伝の存在とか、コンテンツってどう思っています?
竹澤君なりの考えを聞いてみたいです。
竹澤:箱根駅伝をコンテンツとして見ると、弊害だと言われることもあります。
でも、僕自身はそんなことないと思っています。
まず、箱根駅伝がなかったら僕は陸上をやってないですから。
箱根駅伝は陸上を始める「きっかけ」になる。裾野を広げるという意味では間違いなく貢献していますからね。
僕は陸上界に貢献する最高のコンテンツとして、箱根駅伝をポジティブなものとして捉えています。
加納:「箱根がなかったら陸上やってなかった」と竹澤君が言うくらいだから、同じような思いをもって陸上をはじめた子は沢山いるだろうね。
早稲田の竹澤として、注目されていたのはどういう感じでした?
竹澤:注目してもらえるのは嬉しかったですね。
早稲田大学に入りたいと思って陸上競技を始めたし、この大学で活躍したいと思って中学、高校時代を過ごしていました。
僕は、憧れの臙脂にWのユニフォームを着て箱根の舞台を走れることに対して特別な思いを持っていましたからね。
加納:早稲田で走りたいってのちょっと共感します。私も男だったら早稲田で走りたかったです笑
そんな特別な思いで箱根で走ってたんですね。
4年生の箱根で区間新で往路優勝して、その先って私から見たらそれを超えるのって世界陸上とかオリンピックとかしかないと思うけど、その頃はそこまでのモチベーションがあった?
竹澤:そこに対しては自分としてもジレンマがありました。
大学4年生の時の北京オリンピックで経験して、自分が目指さないといけないのはオリンピックだと思っていました。間違いなくオリンピックの方が大きな舞台というのはわかっていても注目はどうしても箱根駅伝。
箱根以上に注目してもらうにはどうしたらいいのかを考え、オリンピックで活躍するしかないと思っていました。
ですが、世界のトップ選手と私では実力に大きな差がありました。世界のトップ選手にどういう努力をしたら近づけるかが明確に思い描けなかったというのは間違いなくありましたね。
苦悩の時期
2007年大阪世界選手権では10000mで12位(写真提供:”ekiden@photos”/(Makoto OKAZAKI))
加納:それは大学で代表になって、その次、実業団でオリンピックを目指すとなったときもそういう感じだった?
竹澤:それが難しかったんです。大学の時に大きな怪我をしましたからね。
加納:大きな怪我は4年の箱根のときですかね。
事前に全然走れてないって聞いてたんですけど、ほんとのとこはどうだったんですか?
竹澤:練習できてなかったし、僕の競技人生は怪我を押して走ったことで競技人生を削ってしまったかもしれません。でも、選んだのは僕ですし、それに対しての後悔は正直ありませんね。
失敗は、次にどう活かすかが大事だと思っているので。
加納:そこまでの覚悟って、学生で世界を経験した竹澤君だからこその選択なのかと思う。
卒業後、実業団に入ってからはその気持ちに変化はありましたか?
竹澤:もう一度オリンピックの舞台にという想いははあるけど、怪我を繰り返して練習できていない状況だったので、現実の自分と理想の自分とののギャップに苦しんでいましたね。
僕の中のビジョンではトラックで実績を積んで、27、28歳でマラソンに挑戦したいとざっくりなんですけど思い描いていたんです。
なので、現状の自分と思い描いたビジョンがあまりにかけ離れていていることに対する自己嫌悪がありました。
現状の自分と向き合うのが辛かったんです。
加納:あとで振り返ると、あの時こうしたら結果良い方向へ行ったんじゃないかと思うことはあるけどね。
でも、その頃はその時にとった行動が一番って思っているんだよね。
今、振り返るとどうすれば怪我しなかったかなとか思うことはあります?
竹澤:そこはわかりませんね。
今だからこそリハビリとか、どうやったら怪我をしない体をつくれるかとか考えるようになりましたけど。
リハビリをしっかりやっていたからと言って怪我をしなかったかと言われれば結果はわからない。
ただ、もし今怪我をしたとしたら、検査を受けて復帰にもっと時間をかけると思います。
でも現役時代の自分にはそんな風には考えられませんでしたね。
加納:なんで考えられなかった?
竹澤:現役時代、僕はいつも焦っていました。あと、そもそも怪我を治す方法を知りませんでしたし。僕らの時代ってアスリハ(アスレティックリハビリテーション)はあまり重要視されていなかった。
今でこそ怪我からの復帰に対して専門的なリハビリが行われることも増えてたけれど、僕らの頃はただ休んで患部の炎症を取ることや自転車や水泳などで心肺機能を落とさないように心がけるくらいのことしかしていませんでした。
怪我予防のためのトレーニングなんて概念がそもそも長距離界にはありませんでした。
リハビリや怪我予防でのトレーニングの重要性に早く気付いてどこかに学びに行って知識を得れば良かったのかもしれないけれど、部を離れて専門家に学びに行くなんてアスリートとして過ごす環境の中では容易なことではなかったですからね。
加納:あの頃は、怪我をしたらリハビリに行く、今だったら、怪我をする前に予防策としてこれが必要って言っている人は沢山いるもんね。
天才ランナーゆえの宿命
加納:怪我に苦しんでる中でも、30歳まで競技続けて、実際にやりきった感じはあった?
竹澤:やりきった感はありませんね。
こんなトレーニングしたかったなとかやりたいことはたくさんありましたよ。
それが自分の体では実践できませんでしたね。
加納:マラソンは走りたかった?
竹澤:もちろん走りたかったですよ。でも、実際は自分の足と向き合ってトレーニングを消化することで、目一杯でした。
マラソン走りたいという願望はもちろんあるけど、今できるのはここだなと自分に折り合いをつける感じでした。
これを積み重ねて行ったら目標に近づくと思えればモチベーションになりますが、僕の場合はそうじゃなかった。
その中でモチベーションをキープするのは難しかったですね。
加納:理想はこれなんだけど、現実はこれで、現実を認めた上でいつ回復するかわからない怪我と向き合うってすごく難しいと思う。
モチベーション保つために、1日1日何でもいいから自分の不安を取り除くような材料が欲しいって思うもんね。
4年の箱根以降、脚の状態が良くなったときはあった?
大学4年の箱根駅伝では3区で区間新。往路優勝に貢献。(写真提供:”ekiden@photos”/(Makoto OKAZAKI))
竹澤:痛みに波はありましたが完全に良くなったことはなかったです。いつも、どこか痛かったです。
加納:常にどこかに痛みをを抱えながら、できることをやり続けたという感じ?
竹澤:そうですね。練習をほとんど継続出来たことがなかったので、いつも試合に向けて帳尻合わせみたいなところがありました。
でもそれを経験したおかげで、知識と知恵はついたと思います。
走れない時間が長かったからこそ考える時間が増えました。
治ったらこんな練習したいとか、こういう風に練習組み立てたら走れるんじゃないか、とか頭の中でシュミレーションはいつもしていましたね。
加納:約8年?どこかに痛みを抱えながら走るって辛いな。
でも、自分で突破口としてこうしたら変わるんちゃうか、治るんちゃうかってのを調べるってのは分かるな。
竹澤:辛いのは辛かったですけどね。
竹澤だったらなんとかしてくるとか、ある程度周りから思われている部分もあって、平気なふりしていることはありましたね。
加納:天才ランナー的なね。そういうイメージで見られていたところはあっただろうね。
それが、モチベーションになることはあった?
竹澤:はい、ありがたかったですよ。
結局はブランディングじゃないけど、加納さんとと同じで、加納さんが笑わなかったとか、自分の中で作っていくというのがおそらくモチベーションの保ち方だったと思うんです。
僕自身もそうで、もし僕がベラベラしゃべっていたら勝負で勝てないことがわかっていたので。
加納:私の笑わないってのは、ブランディングではないけどね(笑)
竹澤君は、硬派なイメージが強かったよね。融通も効かなそうだったし(笑)
竹澤:周りと話しすぎると痛みがあることを悟られそうだし、心を読まれるのが嫌だったんですよね。
競技者としての自分の理想像もあったので。そういうブランディングを自分でしていたことは、それはそれで良かったと思うんですよね。
加納:そこまで考えていたようには見えなかったけど(笑)
自分の理想とか軸を保つためのブランディングも大切だね。
究極に達した時に救われた一言
加納:怪我している中でも、色々調べたって話がでたけど、実際、竹澤君には相談する人(メンター的な人)はいたりしたの?
竹澤:ゼミの先生が、最後の拠り所といったらおかしいけど、たまに相談する大学の時のゼミの先生が僕にとってのメンターでしたね。
加納:ゼミの先生はどんな方ですか?
竹澤:精神科医の先生です。
「人生を俯瞰(ふかん)して総合的に見てみるといいよ」という言葉をかけられました。
その言葉をもらってからちょっと心が落ち着きましたね。その言葉は僕にとってすごく大きかったです。
先生には頻繁に相談するわけじゃなかったのですが、悩んだ時には相談していましたね。
ある時先生から「今の竹澤君にとって、何が幸せなの?」「じゃあ、40歳になった時は?」とか聞かれたんですけど、僕は答えれなかったんですよね。
自分が何が幸せなのかとか分かってなくて、今日足が痛いってことが自分の全てみたいな。
加納:あー、すごく分かる。
今日も痛い、これさえ良くなれば全てが報われるみたいな。
竹澤:だって朝起きたら足痛いんですもん。それしかないですよね、頭の中に。
だから、そのときに客観視したことで、すごく救われましたね。今でも、それが軸になっているかもしれないです。
その時のことが自分にとってはそのくらいのインパクトがありましたから。
先生にとっては、「ポン」と出た言葉だったのかもしれないですけど、「竹澤君にとって幸せってなに?」と聞かれたときに答えられなかった衝撃が今も忘れられないですね。
加納:竹澤君にとっての幸せは、足が痛く無くなること?みたいな。
竹澤:そう、その頃の僕にとっての幸せは、足が痛く無くなるくらい(笑)
加納:その頃は、練習前に足温めてジョギングがやっとできたみたいな、そういう話をしていた気がする。
竹澤:そんな生活でしたからね、だって足痛いんですもん。
加納:現役を振り返ると、私にとって幸せはやっぱ陸上競技。現役最後の2年は、私も怪我をしていたから、もう一回ちゃんとフルを走りたいって思っていた。
それを信じてやってたし。結局、走れずに引退したけど。
竹澤:まあ、究極の話ですよ(笑)
でもなんか、加納さんは自分の願望に忠実に生きている気がします(笑)
僕が先生から学んだのは、人生を後悔しないようにまずは一歩踏み出してみること。
言葉で直接言われた訳では無いんですが、先生が背中を押してくれた、何となくそんな気がするんですよね。
そこから色々考えました。家族ができて子供ができたらいいなとか、そういう話をしていく中で、そういう未来も良いかもなって。そんなことを考えてたらこれまでよりは自分の人生を俯瞰的に見ることができようになった気がします。
加納:怪我したときの竹澤君だったら、そういうこと考えられなかったよね。
竹澤:いっぱいいっぱいでしたからね。
自分の競技人生を通して、伝えていきたいこと
加納:練習風景ちらっと見せてもらいましたが、選手と絶妙な距離感をとっているなと感じます。これから、競技を通して選手にどんな事を伝えていきたいですか?
竹澤:もしも自分と同じように、競技や怪我に悩む人がいたらアドバイスしてあげられるようになりたいなとかは思っていますよ。
加納:技術的なところは、どういうことを選手に伝えてるの?
竹澤:今はけっこう動きづくりをよくやらせていますね。
加納:最近はnoteで発信していたり、同じ大学の短距離のコーチの九鬼さんと組んで、市民ランナーの人の高速プロジェクトもやっているよね。
竹澤:市民ランナーの人ってそういう知識がない方も多くて、普段は走っているだけの方が多いですからね。
走る上で大事なことは走ること以外にあったりすると思うので、そういうのを考える機会になってほしいなという感じではじめました。
今、大阪経済大学の短距離のトレーニングを見ていても、短距離のトレーニングって体の幹を強くするようなトレーニングが多いですから。
加納:同じ陸上でも全然違うよね。走るのも同じなのに。
竹澤:そう、絶対学ぶところはある。短距離のトレーニングは長距離に落とし込めると思います。
加納:逆に長距離が短距離に教えられるとこあるかな?
竹澤:短距離のトップ選手って冬季にめちゃくちゃトレーニングを行っているんですが、弱いチームの短距離って、冬季を雑に過ごしてる気がします。夏場に記録出したいから春くらいからちょっと頑張ってシーズンインしてすぐに肉離れするとか、けっこう多い気がするんですよね。
そういう意味では年間を通うじて我慢強くコツコツやるとかは、長距離が短距離に教えられる部分な気がします。
加納:強い選手といえば、冬季に入ったときに、NTC(国立スポーツ科学センター)で高平君がすごくやってたのを覚えているわ。
※高平さん→高平慎士さん(富士通陸上部所属):2008年北京オリンピック4×100mR銀メダリスト
竹澤:めちゃくちゃやってましたよね。コア的な部分もそうですし、地味なトレーニングをコツコツ積み上げていらっしゃいましたね。
そういう姿って、そこにいける選手にならないと見えませんからね。
トップ選手はわざわざ地味な事をコツコツやっているって表には出さないし、そういう地道な努力の先にオリンピックのメダルがあったってことを知ってもらいたいなって思っていましたよ。
加納:動きとか、補強運動とか、もっとすごいのやってると思いきや、私らみたいな小さい動きを一緒にやってるのが最初は不思議に思っていたな。同じことやっていても、高平君に比べると私は雑で、どうやったらあんな綺麗な動きになるんだと思っていた。
竹澤:そうなんですよ、ただ僕らとはやっぱり全然違いましたよね。
動きの綺麗さとか丁寧さとか。どの動きを見ていても美しいんですよね。
もちろんウェイトトレーニングも大事ですけど 高平さんは動きの正確性を重視しているように見えました。
高平さんは筋骨隆々のタイプではなく体つきはスラッとしていらっしゃいましたし、動きの効率を求めていらっしゃったんでしょうね。体型は人によって違うし短距離といって一概に言えないけど、同じ人間。ベースは同じだと思うんですよね。
指導者として
加納:怪我で悩んでいるときはなかなか相談する人がいなかったって言ってたけど、指導者としてこうしたいとかはある?
竹澤:間違わないようにしたいと思うのは、選手が相談したいと思う相手じゃないといけないので、そこは見誤らないようにしたいですね。
よっぽど悩んでいなければ自分で解決できた方がいいじゃないですか。頼られれば答えるのは大事だと思いますけど。
加納:選手が必要な時に頼ってくる。その関係性って、普段のコミュニケーションの量や深さがってのが関係してきそうだね。
竹澤:頼られたらもちろん答えます。
でも、一つ一つの出来事に対して「どうだ?」ってこっちが踏み込んでいくのは違うかな?と思っています。
選手が悩んでもいないないのに、こっちが悩み作ってどないすんねんって思うんです(笑)
加納:どう?どう?って、まあ、選手からしたら嫌かもね。
竹澤:だから、こっちから話しかけたりは基本しないです。
学生のうちから自分の事を客観視とか正直難しいと思います。大学生なので基本心がグラついてますし、そういう悩む時期があってもいいと思うんです。
僕も大学生の時はグラグラしていたんで、そこをいちいちこちらが踏み込んで言って心をフラットに保ってあげる必要もないのかなと。
今の経験が、今後社会に出たりして、そこで免疫にもなると思いますからね。
加納:なるほど、硬派で融通の効かなかった竹澤君からそんな言葉が出て来るとは思わなかったけど、指導者になってよりキャパが広くなったんだなってのを感じるね。
理想の指導者像ってある?
竹澤:ないですね。永久に学生とグラグラしていたいです(笑)
指導に答えはないと思っているので、学生と試行錯誤しながら色んなことにチャレンジしていきたいですね。
ベターを続けていくことがベストに近づくと考えています。
加納:なんか常に変化を求めている、受け入れるって感じで良いね。目標は?
竹澤:やっぱり、上を目指していきたいとは思いますね。レベルの高い選手を育てたいとかそういう思いがないと、指導者としての成長もないと思うので。
今は、一生懸命トレーニングする子も多いし、毎日一喜一憂しながらグラグラしている生徒を見ると、自分の昔を思い出したりとかして楽しいですよ。
加納:今日練習全然できなかった、とかね。
竹澤:さっきの子もそうで、練習できなくてネガティブな気持ちになっているかもしれないけど、そういうのも帰る時にミーティングで一言言ってあげるだけで顔色が変わったり、明日頑張ろうと思ってくれたりするんですよね。今は、そんな感じでいいんじゃないかなと思っています。
ここは大学で教育機関なので、コーチングだけではなくティーチングも入ってくると思ってます。
自分が大学から求められていることもそういうことだと思うんです。自分がここでやったってことに誇りを持って、やりきったぞと思って大学卒業してくれればいいと思います。
加納:めっちゃ頼もしい話が聞けて面白かった。
自分と比べないとか押し付けではない指導方、置かれた立場での判断力、今、竹澤君を取り巻いているものが見えて良かったです。
今後が楽しみですね。今日は、ありがとうございました。
インタビューを終えて 加納由理の振り返り
最後までお読みいただきありがとうございました。
現役時代の振り返りから指導者として活躍する現在の話まで、いろいろ踏み込んだお話ができた時間になりました。
シリアスな内容が多かったので、竹澤さんに対して硬派な天才ランナーという印象を持った方もいたかもしれません。
実際は、フランクで話しやすく、優しい(多分)男性です。
もし、どこかで見かけたら話かけてあげてください。無視することはないと思います。
私とは現実主義ってところが似ていて、とても勉強家です。
話の中でこんな話が出てきました。
・天才ランナーゆえ、悩みながらもどう戦っていたのか
・現実と理想とどう向き合ってきたか
・究極に達した時の気づき
・指導者としてどう選手と向き合っていきたいか
現役選手はじめ、ビジネスの世界で活躍する人も経験を積んで、気づきを得ることって大切でとても共感できるところも多かったと思うんですよね。
どんな事をやるにしても、稀に最初からうまくいくこともありますが、ほとんどのことがうまくいかないと思うんですよね。
成功と失敗を繰り返すことで、次はこうしようとブラッシュアップすることで自分自身の成長にも繋がると思うんです。
今回の対談はそんな事を再確認させてくれる話になりました。
現役時からも友人、そして一ファンとして応援させてもらっていましたが、指導者としてもなんかやってくれると期待しています。
また、関西でよろしく!