2022月02年03日
今回のアスリート対談、第7回目は勅使川原郁恵さんです。
アスリート対談では、初めて他競技のアスリートをインタビューさせていただきました。勅使川原さんは、ショートトラックで、長野、ソルトレイク、トリノの3度のオリンピック出場。
実は、勅使川原さんと私は生まれた日が同じで、初対面は引退後の3年ほど前だったと思います。
初めて会った時から、お互いのことを知っていたのか、自然と会話が生まれていた事を覚えています。
今回の対談では、ショートトラックの競技観はじめ、3回もオリンピックに出場した勅使川原さんが1人の競技者としてどう行動して、どんなことを大切にしてきたのかを知ることができました。
現役選手はじめ、小、中、高のお子さんがいらっしゃる方にも、とても参考になる内容だと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
勅使川原郁恵さんプロフィール
1978年岐阜県生まれ。
中京大学卒業。
中2でショートトラック全日本選手権で総合優勝を果たし、高校1年から5連覇を達成。冬季オリンピックは、長野・ソルトレイク・トリノ3大会連続出場。
トリノオリンピックを最後に現役を引退。
引退後は得意のトーク力をいかし、スポーツキャスターとなった。
現在は、社団を立ち上げ、子供達に競技から食事まで本物を伝えるべく、多くの体験をしてもらう場所作りも積極的に行なっている。
3歳で履いたスケートシューズ
加納:今回で、アスリートインタビューは第7弾になります。
これまでは、陸上選手をインタビューをさせていただいてたんですけど、他競技のアスリートのお話も聞かせていただきたいと思い、今回は、ショートトラックでオリンピック3大会に出場(長野、ソルトレイク、トリノ)された、勅使川原郁恵さんをインタビューさせていただきました。
実は、勅使川原さんと私は生まれた日が同じ。
他競技のアスリートにインタビューするときは、私の中で、勅使川原さんと勝手に決めていたんです。
前置きが長くなりましたが、勅使川原さん、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
勅使川原:よろしくお願いいたします。
加納:私から見ると、ショートトラックってすごく難しそうに見えるんです。
スケートを始めたきっかけは?
勅使川原:スケートを始めたのは3歳です。
3歳ではけるスケートの靴ってフィギュアの靴しかないので、その靴で始めてたんです。
実は、父親が岐阜でスピードスケートのコーチをやっていたんですよ。
加納:3歳から!?
岐阜はスケートが盛んなんですか?
勅使川原:全然盛んじゃないですよ。
父は消防士だったため、トレーニングの一環としてスケートをしていたこともあり、岐阜県のコーチをしていました。
そのため、毎日、家族でスケート場についていくことが日課になってました。
私、姉2人いるんですけど、姉がスケートをやっていたんです。
周りがみんなスピードスケートの靴を履いていて滑っていたのでかっこいいなって見ていて、スピードスケートの靴を始めてはいた時、何でこんなスピードでるのかって感動したんですよ。
加納:靴で走りが変わる感覚、陸上もあるので共感できます。
初めてスパイクを履いて走った時、感動するのありましたから。
勅使川原:小学1年でスピードスケートに出会い、スケートを楽しんでいたのですが、昔はスピードスケート場は、外で冬の時期しか滑れなかったこともあり、父に「1年中スケート場で滑りたい」と伝えると、ショートトラックは室内で1年中できるからと、小学校4年生、5年生の途中でショートトラックに出会って。
加納:確かに、昔は雪が降る中、外で競技やってましたよね。
勅使川原:初めて見に行ったらちょうどショートトラックの人が練習していて、体をバンクさせてすごいスピードで回っているのでめちゃくちゃかっこいいんです。
私もこれやりたいって思って、小5から本格的にショートトラックの選手になりました。
加納:実際に試合とか練習見ると、自分もやってみたいって感じにはなりますよね。
私も、5つ上の兄が陸上をやっていたので、それを見て、私も陸上競技やりたいと思いましたから。
客観的に見て、スケートは年齢も若いころから、トップで活躍できる選手が多いように見えるんですけど、そのあたり、実際はどんな感じなんですか?
勅使川原:経験やベース感はけっこうありますよ。
練習で強くても試合の感覚がちゃんとないと、負けちゃったりする選手が多いです。
ポジショニングがすごい重要で力があっても駆け引きの戦術的な考えがしっかりしていないと勝てないし、がむしゃらに先頭にいっても疲れちゃうだけで勝てない。
それがレース中に短期間で密にあるので、仕掛けどころをのんびり考えていられないし、反射神経もよくないといけない。
ちょっと間違うと転んじゃうし、人に当たると失格。
繊細なんですよね。
加納:トラックをすごいスピードで滑っている上に、ポジショニングは見てても難しそう。
そう聞くと、すごく繊細な競技だね。
先頭を争ったり、駆け引きがあるのは同じだけど、見ていても陸上とはまた全然違う感覚なんだろうなってのは分かりますね。
マラソンも、ここって時の、仕掛けのタイミングは一瞬ですけどね。
勅使川原:だからすごく難しい。
スケートは、道具もしっかりしていないとダメなので。
スケートの刃が氷の上で石を踏んでしまったら転んでしまうし、レース中、滑ったあとの穴があったり溝があったりするんですよね。それでも転んでしまう。
ふいに、服に砂がついてて踏んじゃうときもあるし、観客席から飛んできたもので転んじゃったり。
刃は自分で研ぐんですよ。
研ぎ方を間違えると、切れ味が悪くて滑れないんです。
加納:道具の手入れが大変で、自分で刃を研ぐって聞くと、身体と道具もとても大切で、身体と道具が一心同体って感じに思えてきますね。
靴はどれくらいで消耗するんですか?
勅使川原:靴と刃は別々に外れて、靴は1年もって、一流選手は刃はほぼ毎日研ぐので少ない人で1年に2本とか消耗するかな。
研ぐと減っちゃうし、刃は人に当たって割れたりもするので、常に2つか3つは予備を準備しています。
職人ですよ笑
自分で手入れするから、それが全て噛み合わないと勝てないんです。
条件、レース勘、道具。
スケートは、全て揃ってでの競技です。
加納:話を聞いているだけで、道具に念を込める気持ちが伝わってきますね。
あと、指導法についてなんですけど、現役時代は、どんな指導方法を受けていたんですか?
勅使川原:コーチは小さい頃から中2までは父親で、そこからはコーチをつけてくれて。
指導法は、マンツーマンではなく、愛知県まで練習しに行って指導受けてました。
コーチは、愛知県全体のコーチ。
30人の中の一人が私。
練習の中で、悩み相談とかの時間とかもなく、「みんな一緒にいくよー!」って。
自分で練習方法考えないと間に合わないから、ほぼ毎日、週6日通ってました。
加納:週6で愛知へ通い!
実際はどんな練習してたんですか?
勅使川原:週3はスケート滑って、あとは陸上トレーニング。
岐阜から愛知まで通って、車で片道1時間半くらい。
両親が送り迎えもしてくれて、夜遅くまで練習して、帰りは12時くらい。
スケートの貸切は一般滑走の後にできるので、20時半くらいから練習。
そんな生活をジュニアの頃からやっていたんですよ。
加納:学校でスケートの部活がないから、やりたいなら通うしかないって感じですかね。
ご両親の協力にも、頭が下がります。
勅使川原:スケートリンクは県の中で一つあればいいかなくらいなんですよ。
リンクも少ないし、貸し切れる時間も限られているので。
小4で抱いたショートトラックへの強い思い
加納:小4でショートトラックに出会って、いつからこれで行こうと決めたんですか?
勅使川原:出会ったときかな。
自分の体が小さくて、そのくらいで自分の身長はこのくらいで止まるかなってわかって、153cmくらいだったと思います。
小さい体だし、スピートスケートよりショートトラックの方があっているかなと思って自分で決めたんですよ。
加納:まわりにはスケートの選手はいたんですか?
勅使川原:いないですね。
岐阜からショートトラックに出会った時は、そこの会場も岐阜と愛知の県境の一宮市にスケート場があるから見に行ったんです。
名古屋の方に行く途中にあって、通えるくらいの距離だしって通い始めたんです。
中学時代は岐阜から愛知に送り迎えしてもらって通っていたけど、高校時代は、他の家族を置いて、私と母親だけ愛知に引っ越しました。
練習の送り迎えのために、母親がついてきてくれて、スケートのために過ごしていました。
家族の理解があって、「行っといで」って言ってくれて、ほんと感謝してます。
加納:陸上選手でも、競技の為に親がついてきてくれてってのは聞いたことありますね。
それだけ、スケートへの強い意思を感じてくれていたんでしょうね。
3大会連続オリンピック出場
加納:ちょっとオリンピックの話し聞きたいです。
初出場は、1998年の長野ですよね。
勅使川原:そうです。
初めてのオリンピックは、1998年の長野なんですけど、その4年前の中3の時のリレハンメルオリンピックは、選考会で接戦だったんです。
出場枠が1人しかなくて、総合的にほぼ同点で、争っていた先輩が25歳くらいの選手でした。
私はまだこれから先があるということもあり、先輩がオリンピック代表になりました。
悔しかったですね。
オリンピックへいけるレベルだったので。
加納:その心境、すごくわかります。
私も、ありましたから。
その4年後の長野の選考会は、どうでした?
勅使川原:4年前、悔しい思いをしたので、その時は何も言わせないトップで行きました。
トップで長野の時は行きました。
長野はリレーで4位で500mと1000mは5位と6位。
オリンピックでは、4位が最高なんです。
出た種目全て入賞できたので今思えば頑張ったなって思いますけど、その時は、勝てる自信がすごくあったんです。
どの種目も、力が出し切れず終わっちゃった感じでした。
いけるのに行けなかったんです。
だからそれだけ悔しかったですね。
目の前にメダルが見えていて、寸前のところで逃したんです。
加納:長野のときは、身体とモチベーションのバランスが良かったってのが伝わってきますね。メダルを逃して、悔しいって思いもあるかと思いますが、初めてのオリンピックで雰囲気にのまれずに、そこまで分析できているのは、さすがだと思いますね。
現役時代から考えていた、引退後のキャリア
加納:客観的に見たら引退後にうまく仕事につなげていたと思いますけど、現役から考えてましたか?
勅使川原:考えていたというより、憧れていたのがスポーツキャスターです。
中学時代から、綺麗なお姉さんたちがインタビューに来てくれるのが憧れになっていて、スーツ着てなんてかっこいい仕事なんだろうって。
引退したらやろうと思いながらスケートを続けていました。
明確でしたね。
「どうやったらみなさんみたいになれるんですか?」って引退前からインタビューしてくれる人に聞いていました。
そこで事務所に入ることを聞いたりして、事務所探しも現役の時から自分でやってました。
2006年のトリノオリンピックで引退を決意して、メディアの方々が多くいたオリンピック会場では、自ら「引退後はスポーツキャスターになりたいです」と皆さんに伝えていました。
加納:これは、今の現役選手も参考にしたい話しですね。
私も、現役時代に聞きたかったです。
スポーツキャスターって話が出ましたが、話すのは、現役の頃から得意だったの?
勅使川原:大好き。めちゃくちゃ好きで、インタビューもしてほしくてしょうがなかったです。1位はインタビューしてもらえるけど、2位は来ないんで、私も喋りたいんだけどなーと思ってました。
勝手に話に入って、「今回負けちゃったんですよ、理由は・・」とか自分から話に行ってるときもありました。
メディアの人と友達みたいになっていたので。
だから、ナショナルチーム全体の取材が入った時は「勅使川原さんに聞いてください」って振られてました笑
加納:私はインタビューは、嬉しさ半分、話したくない半分でしたね。
でも、話すことの大切さは引退後にすごく痛感しました。
競技面でもそれ以外のことでも、どれだけ真剣に考えて、欲を持ってできたかで、その後の人生が大きく変わるなってすごく感じました。
勅使川原さんは、集団の中でも前でまとめるタイプだったんですか?
勅使川原:まとめるという感じではないですね。
先輩だからとかってまとめる感じじゃなく、平等にって考えてたんです。
自分が先輩になったら上下関係はあまり良くないかなって。
強い人は後輩でも称えたいし。切磋琢磨している仲間ということでフレンドリーに。
練習から離れている時間は友達みたいな感じでした。
加納:管理された中でやると行き詰ってストレスになりますからね。
勅使川原:—人の顔色を見て行動したり。
それは極力したくないと思っていて、その殻を破って日本チームでご飯を食べる時も、私はカナダや韓国の選に混じって食事をする時もありました。
スケートをしていないときは、リラックスし、自由な行動も大切だと思っていたので、集団行動はあまり得意ではなかったかもしれないですね。
でも、海外の人とたくさん話ができて、仲良くなってたくさん学べたんですよね。
加納:それは納得ですね。
海外の選手ってオープンじゃないですか。
そこに私も憧れましたよ。
勅使川原:海外の人は靴を履いた瞬間にオンになって、あとの時間が音楽をバーっとかけて楽しんでいる感じ。
加納:日本人はホテルから出発の時点で集中している(私はそうでした)けど、海外の人はスタート前も割とニコニコやっているのは、何でって不思議に思う反面、いいなと思っていたりもしました。
色々と話を聞く中で、勅使川原さんはすごくマインドがオープンだということは分かったんですけど、それは子供の頃から?
勅使川原:中学校までは人見知りでした。
中2から海外遠征に行くようになって変わりましたね。
それが良かったと思います。集団行動プラス海外遠征。
カナダ人が好きなんですけど、ニコニコしている明るさが大好きで憧れて、そこから変わりましたね。
加納:中学の時に何を見て経験したかで、かなり差が出そうですね。
勅使川原:中学時代に海外に行くべきだと思います。
中学になると、日本の縦の世界とかに染みてしまうので。
中学時代に何を経験するかがとても大事だと思います。
引退後も学び続ける姿勢
加納:引退後も精力的に活動してますけど、うまく回らないとか、ここ苦しかったとかありました?
勅使川原:うーん、やっぱりあれですよね。
スポーツキャスターになりたいと思って引退して、現場に行ってリポートとかした時に、自分が伝える側でカメラに向かって喋るときに難しいなって。
どうこの瞬間を伝えないといけないか。
今、言わないと伝わらないからそれをうまくまとめていうのに難しさを感じました。
憧れだけじゃ仕事はうまくいかないって思いました。
加納:平昌オリンピックのときも、テレビで解説してましたよね。
数はたくさんこなしてきていると思うんですけど、もう慣れましたか?
勅使川原:慣れたとはいえないけど、雰囲気はわかってきたからだいたい大丈夫ですね。
そこも経験と数かな。
加納:私は特になんですけど、間があいちゃうと喋りのテンポ感がおかしくなってしまうんです。
それはないですか?
勅使川原:私はならないね。元から人前で喋るのは大好きだからね。
だけどカメラに向かってスタートって言われる時は緊張します。
生放送とか取り返しが効かない時は。たまに放送を見返すと全然ダメじゃんって反省がたくさんあります。
次にいかせるようにプラスに考えてやります。
加納:今でも改善したいことはある?
勅使川原:ありますよ。
人を惹きつける魅力とか。必要だと思うので。
スポーツキャスターとかテレビに出ている人たちを見ながら勉強してます。
加納:私は人がやってるのが良く見えて、反省することが多いです。
勅使川原:見える。日々勉強ですよね。
今後やっていきたいこと
加納:今も、すごくいろいろやって活躍してますが、今後こんなことやりたいってことはありますか?
勅使川原:今は社団を立ち上げて、子供たちにぜひ色々な体験をしてほしいと思っています。
スポーツでいえば、水泳とかだけじゃないんだよって伝えるために、色々な競技の人たちを社団に呼んで、子供たちと触れ合ってもらって楽しさを教えて、そのためにも食事が大事だよって思うので、旬なものの良さを伝える。
今はコンビニがあるから旬のものがわからない。
だから私がおばあちゃんみたいになって0〜6歳の子供を育てている親向けに旬の食材の良さを伝えたり。芸術面も音楽や絵とか体験しないといいものはわからないので体験できる場所を作ってあげたいと思いました。
全て自由に選択していんだよというのを、親や子供に教えたいと思っているので今はその基盤を作っています。
大切なことを伝えていき、今後ずっとやりたいんです。
6月22日にプレイベントをして、0歳から3歳向けの親と子供に参加してもらって、触れ合い体操したり、オリンピアントークショーしたり、食事を出したりしました。
加納:確かに、自分の可能性がどこにあるかわからないよね。
勅使川原:体験できる場所はたくさんあるけど単発なんですよね。
私は全てが大切だと思っているので、全て体験できる場所を作っているんです。
そうすると子供の可能性もすごく広がるし、これから日本を背負っていく子達の考えもグローバル化するし、そういうことをやりたいんです。
加納:そういうことやっていきたいってのは、前々から考えていた?
勅使川原:今までの経験から蓄積されていて、子供ができて色々な習い事を体験して、抜けてるところとか、他のママの話を聞いて、やっぱ大事なのはここだよねとできたのが今です。
加納:やっぱ制限しちゃうからね。
勅使川原:今の子は自由なんだけど、線引きは難しくて。
習い事もいっぱいありすぎて難しくて、私は本物を教えたいんです。
専門的な知識のある人のものでプログラムを作っているので、食事も旬や栄養素などプロ目線のものを提供しているので。
全て本物を伝えたい。
自分がアスリートとして大切さをせっかく知っているのでぜひ伝えたいと思います。
加納:うん、面白いね。
私は、子供の頃、一流のアスリートと触れることはなかったので、自分が触れたりするのはいいことだなって感じますね。
勅使川原:絶対いいんですよ。
小さい頃から触れ合ったり体験したりするのはいいと思うので。
それは絶対に進めていくし、大きくしていきます。
加納:めっちゃ楽しみですね。
私も、お役に立てることあれば協力させて下さい。
インタビューを終えて
今回、勅使川原郁恵さんのお話を聞かせていただいたことで、これは絶対に大切にして欲しい、たくさんの人に伝えたいと思うポイントが3つありました。
・子供の頃からやりたいことは自分で決める
・競技で色んな経験をする中で、自分から積極的に学ぶ姿勢
・現役時代から次のキャリアのことを考えていた
勅使川原さんのお話を聞かせていただいた上で気付かされたのは、誰かにこれをやりなさいと言われたことだけをやるのではなく、これが必要と感じたら、自分自身にも責任を持ち、積極性を持って行動していることが、競技者としての結果を作り出したのではないかと感じました。
勅使川原さんの明るく前向きな性格は、競技者としてだけでなく、1人の女性として強く生きる、輝きも感じました。
これから2020年の東京オリンピックはじめ、選手強化が進んでいく中で、この対談記事が1人でも多くの方に読んでいただけると幸いです。