2022月02年03日
「陸上の格闘技」と聞いて、どんな種目を思い浮かべるでしょうか?
わずか数分の間にめまぐるしく順位が変わり。ポジション争いや駆け引きが繰り広げられ、接触は当たり前、時に流血や転倒すらありえる激しい競技。
それは、陸上競技の中距離種目(800m、1500m)です。
歴史的にヨーロッパ勢が強く、近年はアフリカ勢の勢いも凄まじい種目ですが、実は日本人女子で初めてオリンピック競技でメダルを獲得したのが女子800mなのです。
1928年アムステルダムオリンピックで、短距離選手だった人見絹枝さんが800mで銀メダルを獲得して以来、日本人女子選手の出場は叶っていません。
そんな厳しい現状の中距離種目でオリンピックを目指す一人の女子選手がいます。
彼女の名は、卜部 蘭(うらべ らん)選手。今年の日本選手権では800mと1500mの二冠を達成した注目の選手です。
卜部選手は、前回アスリート対談をさせていただいた楠 康成選手と同じく、800m元日本記録保持者の横田真人コーチの指導を受け、めきめきと力をつけている選手です。
屈託のない笑顔ですらっとした細身の身体から「激しい中距離選手?」とやや疑問でしたが、インタビューを通して彼女の強さの秘密を垣間見ることができました。
アムステルダムから止まった時計の針を動かすために、卜部選手がどんな経緯で今に至り、どうやって東京オリンピックを目指していくかについてお話を聞くことができました。
読んだらきっと競技場に応援に行きたくなるはずです。
では、どうぞたっぷり御覧ください。
卜部蘭選手プロフィール
1995年東京都生まれ。
経歴:白梅学園高校→東京学芸大→NIKE TOKYO TC
2019年6月の日本選手権では、800m、1500mの2種目で優勝。
東京2020では、日本人女子選手初1500mでの代表を目指す。
仲間と誓った東京オリンピック
加納:会う度に選手としてのたくましさが増している、卜部蘭さん(以下、普段の呼び方の蘭ちゃん)ですが、最近の走りを見る限りでは、東京2020をかなり意識していることが伝わってきますね。
蘭ちゃんがオリンピックを目指そうと思ったのは、いつからですか?
卜部:オリンピックを目指そうと思ったのは、陸上をはじめた小学生の頃で、東京オリンピックを目指そうと思ったのは、実際に東京オリンピックの開催が決まった、高校三年生の国体合宿の時です。
自国でオリンピックが開催されるなんて一生に一度あるかないかのことじゃないですか。
オリンピックに出るのがどれくらい大変なのかなんて全く分かっていませんでしたが、決まった瞬間に同じ部屋にいた子と「出たい!目指そう!!」ってなったんです(笑)
遡ればそれが最初でしょうね。
加納:若さがあっていいですね(笑)ってことは6年前の今頃ですか?
高校時代:国体
卜部:そうですね、ちょうどその頃になります。でも、どうやったら東京オリンピックに出られるのかすらも分かっていませんでした。
そこで、まずは自分が戦うステージで結果を出さないとオリンピックにつながることはないので、自分たちの次のステージ(大学生)の試合を見に行きました。
オリンピックの開催決定と同時に、1964年の東京オリンピックでメイン会場として使われた旧国立競技場は取り壊されることになっていたので、私たちが見に行った全カレが旧国立競技場で行われた「最後の全カレ」になりました。
今思えばなんだか特別感がありましたね。大迫傑さんや設楽悠太さんはその当時ちょうど大学生。
安易な気持ちで目指そうって言ったわけではないのですが、6年後に自分がここまで本気でオリンピックを目指して競技を続けることになるとは、さすがにイメージできていなかったです。
加納:オリンピックに出るなら何の種目だと思ってましたか?
卜部:1500mです。
当時は1500mだけじゃなくて800mも専門にやっていましたが、自分の中では1500mが一番かっこいいなと思ってたんです。ただ、大学生の頃は800mのほうで記録が出ていたので「どっちなんだろう?」ってなったときもあります(笑)
でも、心の中ではずっと1500mに思いがあったので、今は明確に1500mでオリンピック目指したいって思ってます。
マラソンへの思い
卜部:逆に私は加納さんに聞きたいのですが、800mと1500mって違う種目っていっても同じ中距離種目。走る距離もそこまでかけ離れているわけじゃないと思うのですが、マラソンとなると話は別物ですよね。
加納さんのようにトラック種目を専門にやっていた選手がマラソンでオリンピックを目指すって、全く違う種目に転向するように思えるのですがその辺りはどうだったんですか?
加納:私も、実業団に入った頃は、自分がマラソンまでやるなんて思っていませんでした。
でも、トラック種目を続けることに限界を感じていて、そんな時に同じチームにいた同世代の選手がマラソンを走ってるのを見たんです。レースまでの過程とかレースにかける思いになんとなく興味が湧いてきて、走ってみたら想像以上に面白かったんです(笑)
マラソンって頭で考えながら走るものだし、速いから勝てるわけではない、最後まで何が起きるかわからないんですよ。
それはトラック種目にない魅力で、私が夢中になった理由かもしれないです。
学生時代や社会人になりたての頃はトラックが中心だったので、練習もレースもすべて全力でした。常に張り詰めたような状態でやっていたので、余裕はなかったです。
でも、私にとってのマラソンは、いかに頑張らないか?力を使わないか?が大事だったので、これまでと感覚が違うなって思ったんです。
それに気づいてからは力の入れ方もコントロールもできるようになってきて、結果的にはトラックの記録も良くなりました。いろんな意味で、マラソンやって本当に良かったなって思ってます。
卜部:えぇ!?練習もレースも全力でやり続けるって、加納さんの凄いところの1つだなと思いました。
私はトラックを中心に走っていますが、今聞いてびっくりしました。
加納:たしかに、いつもニコニコしてると思ったら練習の時は顔がキリッと変わる蘭ちゃんと私を比べると対極ですよね(笑)
でも、大げさな表現じゃなくて、本当に練習もレースも全部全力。ポイント練習じゃない時でも4分/kmくらいでジョグしてましたよ。
当時は気持ちに余裕がなかった上に、レース前はいつもめちゃくちゃ緊張していて、レースは何度も空回りしてました。練習の割にはレースでいまいち走りない状況が続いたこともあります。
ムスっとして笑わなくてインタビュワー泣かせって言われたり。あっ、これはマラソンやってたときも言われてたか(苦笑)
卜部:その話、加納さんが怪我をされていた時に本を読まれていたという記事で、読んだことがあります。
私の感覚の中ではマラソンはそもそも走り切れるかどうか?というくらい未知の距離なので、私の想像できないような違う領域なんだろうなって思ってます。
加納:人それぞれ、自分にあった種目と練習スタイルがあると思うんですよね。私の場合はそれがマラソンで、競技全体にいい影響を与えてくれました。
マラソンをやる前の私は、練習もレースも完璧にこなさなきゃダメって思い込みに支配されていたと思います。
でも、自分が完璧だって思える練習を100%こなすことはマラソンの場合いろんな意味でとても難しい。
練習を完璧にこなしてレースに臨めたのは、2008年の東京国際女子マラソンくらいですね。それ以外のレースは全て準備の段階で100%はこなせなかった状況でスタートラインに立ってました。
若い頃の自分だったら、全て予定通りにこなせなかったことに対しての不安がレースの結果にすぐ出ちゃっていたのですが、マラソンをやるようになってから徐々にそのマインドが変わっていった気がしてます。マイナス要素も全て味方につけてしまうみたいな(笑)
その時の調子、レース中の雰囲気、身体の変化などに合わせて走りをコントロールし、目の前のことに集中して走るようになったら、変な力も入らなくなっていきました。
卜部:それはすごいですね!新しい感覚を得られたんですか?きっと、まだ私が感じたことのない境地なんでしょうね。
加納:そうかもしれないけど、逆に私は蘭ちゃんのように自分の意志を貫いて中距離にこだわるのはすごいと思いますよ。
陸上競技の中でも中距離って少し特殊な位置付けじゃないですか。
高校も大学も駅伝に注目が集まっちゃうし、チーム事情で駅伝のためのトレーニングを求められることもある。そんな中で中距離にとどまり続けるっていうのはなかなか大変だと思うんですよね。
周りから長距離を勧められても、頑として中距離にこだわっていたのか、長距離に興味を持たなかったのか、その辺りはどんな感じなんですか?
卜部:どちらかといえば前者ですかね。中距離に対するこだわりが強かったというよりも、あこがれが強かったと思います。
加納:じゃあ、長距離には興味がなかったと言うことですか?
中学時代:千葉国際クロスカントリー
卜部:それも実は違って、むしろ興味はめちゃくちゃありましたし、今でもあります。
中学生のころなんかは箱根駅伝マニアでした。川内優輝さんが学習院大学で学連選抜チームに選ばれて箱根駅伝を走っていた頃から知っていて、陸上競技の専門雑誌は隅から隅まで読み込むくらい好きでした。
加納:むしろ、駅伝ファンなんですね、でも、憧れる気持ちは良くわかります。私も、小、中学生の頃とか箱根駅伝めっちゃ見てましたから。
卜部:だから長い距離に興味はありました。それでも一番かっこいいと感じたのはトラックの中距離種目。小さい頃からのこだわりなんですよね。
加納:小さい頃からのこだわり?何を見てそんなにかっこいいと思ったんですか?
卜部:実は親の影響なんです。
親が学校で陸上の顧問だったこともあって、昔から高校生の陸上競技の試合を見に行っていました。
1500mとか5000mを見ていましたね。当時の私には、5000mはちょっと長くて、飽きちゃって(笑)
でも、最後の駆け引きとか、短い間でのスパートがある1500mは子どもながら釘付けになって見ていました。
陸上競技以外のスポーツだと、サッカーは特に好きで、どんどん点が入って展開がめまぐるしく変わるバスケのようなスポーツのほうが好きです。そう考えると性格的に中距離なのかもしれないですね。
加納:なるほど。でも、蘭ちゃんがちょっと準備すれば、5000mくらいまでならすぐ、戦えそうな気がしますよ。
卜部:ほんとですか(笑)でもまだ私にとっては未知なるところです。
これまでの歩みのなかに隠された進化の秘密
加納:私は、高校以降は1500mはほとんど走ったことないし、自分の戦う種目じゃないなと思っている分、ファンとして見るのはすごく好きな競技なんですよね。だからこそ蘭ちゃんにはすごく期待してます。
オリンピックを目指す上で、自分がここまで強くなった理由って何だと思いますか?
卜部:これまで指導してくれたコーチの方々は練習メニューの内容や組み立て方がみんなバラバラでした。中距離の専門家もいれば、全く別の種目だった人もいます。
でも、本当に熱心にいろんなことを教えていただいたので、いろんな練習方法やメニューの組み方が経験できたと思っています。
そして、どのコーチも決して管理するタイプじゃなかったことも大きかったです。押さえつけられることもなく、自由に走れました。ただ、“自由に…”とはいえ、高校まではコーチに出してもらったメニューに沿って練習していればよい環境でした。
それが、大学に入学すると同時に自由度が一気に高まって基本的には自己管理になります。自由度が高まることで伸び悩む選手もいますが、私の場合はこれまでやってきたことがベースになって、そこからいろいろとメニューを繋げて、自分でメニューを立てられるようになったんです。
それまでの経験がうまく噛み合ってくれたおかげで、大学生になっても記録をちゃんと伸ばせたんじゃないかなって思います。
もし、高校までずっと管理される環境のなかで走っていたとしたら、きっと大学生になった途端に何をすればいいか分からなかったでしょうね。記録を伸ばすことも難しかったと思いますし、今にもつながっていなかった気がします。
加納:たしかに、大学は自由度が一気に高まりますし、自己管理能力が求められますよね。
でも、自分で考えて動くっていう経験は、最初は大変だけど、後々振り返ると、自分の行動に責任を持つって言うところでは、すごく大切なことなんだと思います。
私も身をもって経験しましたからよく分かります。
卜部:ほんと、そうですよね。
そして、もうひとつ。
これはまたちょっと違う観点からのお話なのですが、中学2、3年生の時の担任の先生に大きな影響を受けました。その先生は国語科の先生で、イチロー選手が大好きでした。授業中やHR、学級通信などでイチロー選手の名言をたくさん紹介してくれたんです。
私はその言葉がすごく心に響いて、先生が紹介してくれるたびに、その言葉を自分のノートに書き写していたんです。
加納:このノートはすごい!自己啓発ノートでもあり、蘭ちゃんにとっての財産ですね。
卜部:ありがとうございます。中学生の頃は不安になるとこれを読み返してました。
今思うと、昔からセルフトークができてたなって思ってます。不安になったときは自分を奮い立たせるような言葉を読んだりしてましたね。
最近はアドラー心理学の本を読んでいて「今ここにどれだけ集中できるか」という言葉が今の自分に響く言葉です。日本選手権の前はこの言葉をずっと自分に投げかけていました。
加納:いろんな言葉を大切にしてるんですね。私も怪我をしたときにいろんな本を読んでました。
私の場合はビジネス書でしたが、自分の練習日誌にもいろんなことばを書き残していて、そこでセルフトークしてましたね。
蘭ちゃんはイチロー選手の言葉のなかで特にお気に入りの言葉ってありますか?
卜部:いろいろあるんですけど。その時の状況によって響く言葉も違うんですよね。
すごく悩んでいたときには「いろいろ考えてしまうのが人間ですが、それを含めての力ですから」っていう言葉に救われました。
あと、これはサッカーの遠藤選手の言葉なのですが「いかに難しい状況でいかに簡単にできるか」っていう言葉もすごく好きです。よし頑張ろうって心が奮い立つ言葉です。
私、結構単純なタイプなので、それを読んで「そうか!」とすぐに思えるんです。言葉によって心が動くタイプで、小さい頃から自分に語りかけていたと思います。言葉を集めたノートは自分の今の教科書です。
加納:イチロー選手の言葉って人間味がありますよね。
華やかでキラキラしたイチロー選手の表の顔だけを見ていると、「イチロー選手だからそれができるんでしょ」って思ってしまいがちですが、人間味のある言葉に出会うと、「あんな、イチロー選手でもやっぱり同じ人間なんだな」と気づける。
そのギャップに力をもらう気がしますね。
卜部:加納さんは最近なにか影響を受けた本ってありますか?
加納:最近だと『キングダム』かな。漫画だけど、ビジネスやチームづくりに置き換えて読むと、すごい面白い!重要なヒントがあるんですよね。
卜部:おぉ!漫画はわたしも好きですよ!!
スポーツ漫画を読むことがが多いですが、『キングダム』も読んでますよ。
加納:この話は尽きないですね・・・(笑)
横田真人コーチとの出会いと東京オリンピック
大学時代:全日本インカレ
加納:横田コーチと出会ったのはいつ頃のことですか?
卜部:横田さんに初めてお会いしたのは高校生のときに出場した国体のときです。同じ東京チームにいたので、いろいろとお話を聞かせてもらいました。
それから、大学3年時に横田さんと再会する機会があって、それをご縁に大学4年時以降みてもらうことになりました。
横田さんにコーチングしていただくまでは、自分で練習メニューを組み立てていましたが、やっぱり信頼できる人のアドバイスも必要だなと感じていたので、その当時のアドバイスは非常に貴重でした。
最初からアドバイスをもらってそれに従うだけだったら、違う関係になっていたかもしれません。
加納:「与えられた指導者」ではなく、「自ら求めた指導者」ということですね。これからの時代はきっと今まで以上に自分から主体的に動く時代になっていくんでしょうね。
それで大学を卒業したタイミングで横田チームに加わったということですよね。
卜部:そうですね。
元々は実業団に行くことも考えていました。でも、卒業後の進路について考えていた時に、横田さんからご飯に誘われ、チームを作るつもりだというお話を伺ったんです。
それまでそんなそぶりは全くなかったのですごく驚きました。横田さんは選手としても1人の人間としても尊敬していました。横田さんの元で競技をさせていただきたいと強く思いました。
加納:まさに、出会いとタイミングですね!そこから4年経っていますが、目標はずっと東京オリンピックで1500mに出ることだったんですか?
卜部:もちろん東京オリンピックは、根本にあった想いです。
でも、その目標を明確に掲げるためにクリアしなきゃいけないステップがありました。
大学生のころであれば全カレ優勝、卒業してからは日本選手権で優勝など、目の前のことを一つずつクリアしていくことが東京オリンピックにつながっていくと思っていますし、その時々の目標を確実にクリアしてこうと思って走っていました。
加納:まさに、アドラー心理学ですね!
でも、最近は自信を持ってオリンピックのことを口に出すようになりましたよね。目の前の目標がいよいよ「東京オリンピック」になったということかなと思うのですが、それはいつごろからですか?
卜部:今年の4月のアジア選手権の後です。
実は、それまでは東京オリンピックを見据えて3000m障害に種目を変えようかという話もあったんです。オリンピックに出ることから逆算するとそれも一つの選択肢でした。
でも、アジア選手権を終えて1500mで勝負したいという自分の気持ちに改めて気づいたんです。
また、今度の東京オリンピックはポイント制が採用されるので、そのことを考えてもやっぱり1500mのほうで挑戦したほうが勝機が見えてくると思ったんです。
加納:オリンピックに出場するため計画を綿密に考えていくと、ポイント制の中でレースを選ぶことはすごく大事になってきますよね。
卜部:そうですね。
これまで以上に一つ一つのレースが重要になってきました。
アジア選手権は獲得できるポイントが高い試合なのですごく重要でしたし、そこから目標順位や目標タイムを考えていくうちに、完全に“ロックオン”していましたね。これまで以上に明確にオリンピックを意識するようになったという意味で、やっぱりアジア選手権は一つの大きなターニングポイントだったと思います。
ちなみに、アジア選手権は4位。本当はもう少し上の順位を狙っていました。タイムもポイントも想定よりも下でした。ポイント制のことも考えながらレースの結果を振り返るのは少し複雑ですが、総合的に振り返ると今後にしっかりつながる結果だと思っています。
加納:今までは「参加標準タイム」をクリアするというシンプルなものでしたが、今度の東京オリンピックからはかなり複雑になりましたよね。私の現役時代とはだいぶ違う(苦笑)
蘭ちゃんは「参加標準タイム制」と「ポイント制」のどっちがいいですか?
卜部:私は今の「ポイント制」が好みでやりやすいです。
性格的にも一つ一つ目標をクリアしていきたいタイプなので、それがポイント制という制度と重なっていて自分に合っていると思っています。
加納:たしかに、蘭ちゃんはこっちのタイプですね。
横田コーチとともに目指す東京オリンピック
加納:横田コーチの指導を受けだしてからの様子を見聞きしていると、蘭ちゃんは感覚に優れたタイプなんだろうなと思って私は見てます。
そのあたりの変化は自分で感じたりしていますか?
卜部:そうですね、気持ちの持ち方は以前よりかなり成長できているなと実感してます。
大学生のころまでは、メニューを自分で組み立てていたので、トレーニングの効果が本当に出ているのかどうか不安が残っていました。
もっとやったほうがいいのか?それともやりすぎなのか?客観的に見たり評価したりする要素がなかったんです。もちろんレースと前後の練習を繋げていくイメージは持っていましたが、自分が立てたメニューに100%自信を持てていたわけではなかったです。
でも、今は横田さんに体調やその時の状況を相談してメニューを組み立てもらってます。立ててもらったメニューがこなせたら、そのこと自体が一つ一つ自信になっていくんです。
もちろん自分でもなぜこのメニューをやるんだろうってことは必ず考えます。そうすることでメニューにより集中できるんですよね。
加納:まさに、一つ一つのメニューを大切にして取り組んでいるということですね。
卜部:はい、そうですね。
そして、信頼している横田さんが出してくださったメニューだというのもすごく大きい。誰がどういう意図で考えてメニューを作ってくれたのかが私の中でとても重要なんです。
これまで自分で練習メニューを考えてきた経験や自分自身が大切にしている感覚、そういった色々なものが噛み合っていくことで、しっかり東京オリンピックに向かえていると思っています。
レースでは自分の力をぶつけるだけ。いい意味で開き直れていて、自然と勝負強さがついてきました。
加納:そう考えると、横田コーチは「メンター」ですね。
卜部:まさにいろんな意味で「メンター」です。信頼しているからこそ、コーチの言葉に力がこもる。
私が一方的に思っているんですけど、横田さんって言葉に魂が宿っているんですよね。
言霊というやつです。
加納:今年の日本選手権の前に何か横田コーチと面白いやりとりがあったんですよね?
「1500mを優勝して…800mも優勝して…メダル二つかけて…」なんて言われたんでしたっけ?(笑)
今年の日本選手権では、800m、1500mで2冠を達成
卜部:加納さん、そのエピソードよく知ってますね(笑)実は日本選手権の前に横田さんからは「2種目優勝できるよ」って言われていました。
でも、その時の私は1500mに集中していて、800mのことは頭にほとんどなかったんです。エントリーはしていたものの、1500mほど入れ込んでいませんでした。
加納:1500mやり切った後の、おまけ?ついで?みたいな感じですかね。
卜部:はい。
でも日本選手権の1500mが終わったあとに横田さんがニコニコしながら「蘭ちゃん一つお願いがあるんだけど」って言ってきたんです。
何かと思ったら「800m終わった後に2つ金メダルかけて写真を撮ろう」だったんです。
加納:横田コーチ、すごい!その一言で800mも実際に優勝しちゃう蘭ちゃんもすごいけど(笑)信頼しているコーチからそう言われると、俄然やる気になりますね。
卜部:そうですね。私は横田さんのことをすごく尊敬していますが、それは指導だけに限らず、アドバイスにも相手を思う人間性があるんですよ。
もし「800mも頑張ってみたら」みたいな言葉だったら、違う結果になっていたかも知れません。
加納:今年の日本選手権は、蘭ちゃんにとってはじめての日本選手権優勝ですよね。
勝つっていうメンタリティでレースができたということですか?
卜部:1500mは勝ちを強く意識していました。前の年は胸の差で2位で、負けた時はすごく悔しかった。その想いをずっと持って練習してきました。今回はとにかく目の前のレースにとてもよく集中できましたね。準備は十分できていたので。
800mは逆に全然勝ちを意識していなかった種目だったのですが、横田さんはそれまでの練習の様子をみて「勝てる」って思ってくれてたんでしょう。
だからこそ、1500mが終わった時点で「メダルを二つかけたい」という言葉で、私にそのことをさりげなく伝えてくれました。
その言葉のお陰でスタート前は優勝してメダルを2つかけてもらいたいというモチベーションにつながりました。根拠のない自信でしたが、そのメンタルで走ってみて、実際に800mも優勝できました。
自分で上限を決めないことの重要性にも気付けましたね。
加納:根拠のない自信ね。それって、すごく大事ですよね。
でも、大人になると、そういったところ薄れてきてしまう。さりげなくそれを伝える横田コーチ。良い具合に歯車が噛み合ってますね。
蘭ちゃんには、この先もこのままでいてもらいたいですね。そして、東京オリンピック出てまた違った景色を見てほしいなって思います。
卜部:加納さんもご存知の通り、オリンピックで女子1500mに出た日本人はまだいないんですよね。
だからこそ特別感があって、1500mに出るということは、文字通り「誰も見たことのない景色」を見ることになるんです。
これが今一番のモチベーションですね。
加納:じゃあ今、自分がよりオリンピックに近づく、更に強くなるためには、何が必要だと思う?
卜部:「海外で勝つ経験」だと思ってます。
もう少し細かく言うと、海外のレースで先頭を走るってことも含まれます。
この重要性は、今年のヨーロッパ遠征やアジア選手権でも痛感しました。
加納:先頭を走るって勝つことに慣れるってことですね。
卜部:そうですね。
スタート前から負けるって思っていたら、ギリギリで競った時に勝てないと思うんですよ。勝ったことがある経験は必ずプラスに作用すると思ってます。
加納:そのためにどんなトレーニングが必要だと考えているんですか?
卜部:余裕を持ちながら走って、最後に出し切るっていうレース展開はできるようになってきました。
でも、これからさらなるレベルアップを考えた時にはこれだけじゃ不十分。今後はきついところで押していくタフさが必要になるなと思ってます。
日本記録が小林祐梨子さんの4分07秒86なので、それを考えると400mを66秒で押していかなくちゃいけない。さすがにこのペースは楽に走れるペースじゃないですし、日本記録の更新ということを考えても、やはりきついところでしっかり押していく必要があります。
そういう強さが必要だと思ってます。
加納:確かに、これまでは勝つための走り方っていう感じだったかもしれないけど、日本記録を狙うとなると自分一人でレースを作るくらいの力が必要になってきますよね。
卜部:はい。先日、日本選手権が終わった後に小林裕梨子さんにお会いしました。
小林さんもやはり一人で押していく強さが必要だねと言っていましたし、今後はそれが大切な課題になると思っています。
加納:すでに結果を残している人からの言葉は、力になりますね。
そこまで、気づけているなら、後は、チャレンジするのみですね。今後も蘭ちゃんのことは注目し続けますし、応援していきますね。
卜部:ありがとうございます。私も東京オリンピック目指して頑張ります。
横田コーチから卜部選手へ
チームをつくると決めたとき、一番最初に勧誘しようと思ったのが蘭ちゃんでした。
チームをつくる話は一切せずにお茶に誘ったり、ときにはPokemon GOも一緒にして洗脳していきました(笑)
満を持して正式オファーをしたときは、指導実績もあって経営基盤もしっかりしている実業団チームからも勧誘を受けていたにも関わらず、うちのチームに決めてくれました。本当に嬉しかったです。
それから、チームがうまくいかないときも、結果がなかなか出ない時期も、どんなときも真っ直ぐに信じてついてきてくれました。
ただ面白いのは、蘭ちゃんは真っ直ぐ進んでるつもりでも、目標に最短距離というよりは、ジグザグに真っ直ぐ進んでいたりします(笑)そのジグザグをなるべく直線にしていくのが僕の役割ですね。
なので、これからも蘭ちゃんから見える世界を真っ直ぐに進んでいけば、描いた夢が現実のものになると思います。
日本人初女子初の1500mでのオリンピック出場。ときたま軌道修正しましょう。
アスリート対談を振り返って
卜部さんとのアスリート対談を通して、彼女のまっすぐな姿勢に私自身もフレッシュな気持ちになりました。
まだ24歳という若さながら、確実に経験を積み、そんな中で自分がやるべきことが明確になっていることは彼女の強みです。
対談のまとめとして、卜部さんが話してくれた内容のポイントを3つにまとめてみました。
①目標が明確であること
彼女が東京オリンピックを目指したのは高校3年生の頃。
もちろん当時はまだまだ明確な目標という感じではなかったかもしれませんが、目の前の目標を明確にしてそれをクリアしていくことで、東京オリンピックという大きな目標を具体的に意識できるようになっていったのだと思います。
目標は高すぎても、低すぎても、具体的な行動につながるモチベーションにはなりません。
大切なことは適切な目標設定です。
自己分析に長け、セルフトークによって自分自身を客観視できていたことも、彼女の大きな強みだなと感じました。
②指導者との信頼関係
今回のアスリート対談を通して、様々な指導者との関わりの中で卜部さん自身がたくさんの経験を積んできたことがよく分かりました。
時に自ら主体的にメニューを組み、時に専門外の指導者からもたくさんの事を吸収する。
そういった経験を経た上で、今は横田コーチという絶大な信頼を置く指導者とともに東京オリンピックを目指しています。
圧倒的な信頼関係があるからこそ、彼女の言葉には迷いが感じられなかったのでしょう。
その一方で、コーチに依存するのではなく、自分自身でも分析して、動ける力を身につけていきたいとも話していました。
依存ではない信頼関係~こういった繋がりは、これまでにない新たな師弟関係になるのではないかなと私は思います。
③笑顔と明るさが生む人との繋がり
卜部さんの最大の強みは何と言ってもその天真爛漫さ。
彼女の周りには常に笑顔で溢れています。
人との繋がりに恵まれたと本人はいうものの、人は集まるべくして集まるものなので、蘭ちゃんの人間性が多くのファンや仲間を作っていったのでしょう。
そして、彼女は出会った人との繋がりをとにかく大切にしていました。
中学時代の恩師の言葉をノートに書き留める、自分自身が不安になった時にそれを見返す、客観的な評価が必要だと感じた大学時代には良い意味で遠慮せずに横田コーチを頼るなど、そういった行動が今の競技環境を作ったのだと思います。
今回のアスリート対談を通して、私は改めて蘭ちゃんの芯の強さとこれからの可能性を感じました。
目標の明確化、指導者(上司)との信頼関係、笑顔など、今回のお話はスポーツの場面だけにとどまらず、ビジネスの場面でも普段の生活でもとても大切な事だと私は思います。
東京オリンピックまであと1年を切りましたが、卜部さんのようなアスリートの活躍が多くの人に笑顔と希望を与えてくれるだろうと私は確信しています。
是非、卜部蘭選手を応援してください!