2008年名古屋国際女子マラソン(北京五輪選考会)レース回顧録 ブログ | 加納由理オフィシャルサイト

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パンダブログ

2016年3月7日

2008年名古屋国際女子マラソン(北京五輪選考会)レース回顧録
加納由理の2008年名古屋国際女子マラソン

北京五輪への挑戦

大阪国際女子マラソン途中棄権

北京オリンピックのマラソン出場を目指して、選考レースとして2008年1月の大阪国際女子マラソン(2008年北京五輪選考会)へ的を絞って練習をしていたのだが、足底の痛みが消えずまともな練習をすることができずにダメ元で挑んだレースは17km地点でDNF(途中棄権)となった。

一度は諦めた北京オリンピックだったが、最後の選考レースである1ヶ月半後の名古屋国際女子マラソンでの切符獲得を目指して、休むまもなく再挑戦のスタートを切るべくアメリカニューメキシコ州アルバカーキへ旅だったのであった。

北京五輪に向けて再出発

アルバカーキでのリハビリ

アルバカーキに合宿入りしたものの、足の痛みは消えなかった。レース本番まで残された日は少ないにも関わらず、練習は再開できず、朝から水泳とエアロバイク、補強トレーニングといった同じ練習が続く毎日を過ごしていた。

一緒に合宿に同行してくれているトレーナーも1日でも早く練習が再開できるようにと、最善は尽くしてくれているが、やはり痛みは消えてくれない。 一向に消えない痛み。 焦りが募るばかりで、走れる感じは一向にしてこなかった。

日本に帰りたい

足底筋膜炎はとにかく朝の一歩目が痛い。劇的に回復などするわけなど無いのだが、毎日朝起きと、「今日は良くなっているかな?」と期待してしまう自分がいた。しかし、地面に着く最初の一歩でその期待は裏切られるのが朝の恒例行事になっていた。

アルバカーキに渡って、2週間が経っても未だ回復してこない足底の痛み。こうしている内にも北京五輪の切符を勝ち取るべく名古屋に向けて順調に練習を重ねているライバルたち。

何もできていない自分が悲しくて、その場にいるのが辛くて、一人部屋で涙を流す時もあった。 そんな日々に我慢できなくなり、ある日の朝、私は監督に「もう日本に帰らせて欲しい」と申し出た。 この時の自分は「選考会をもう諦めよう」という気持ちに傾いていたのだった。

選考会が終われば次に進める

監督は私の言葉を受け止めた後に「日本に帰ってどうする?」と言った後「帰ったら足は良くなるか?」と続けた。日本に帰ったからといって好転する要素などなく、怪我が良くなることがないことは私もわかっていた。

そして、監督は私に対して「加納は絶対にレースまでに間に合わせないといけないって思っていないか?今の状況でいつ治るなんてわからないんだから、スタートラインに立てても立てなくても、最後までやれることをやりきればそれで良いじゃないか。この1年間、選考会のためにやってきたんだから、選考会が終われば次に進めるんだから」と語った。

私はこの監督の言葉に救われた気がした。「1日でも早く治してトレーニングを再開しなくてはいけない」と自分を追い詰めていたのは自分だった。やることをやって治らなかったら治らなかったで仕方ない。「今の自分の現状を悲観も楽観もせずにありのまま受け止めて、最後までやるべきことをやればいいんだ」という気持ちに変わり、今までとトレーニングの内容は変わらなくても、取り組む姿勢は前向きに変わっていった。

心が体に現れる

気持ちが楽になったのか、足の痛みは徐々に良くなっていった。そして合宿も残り1週間のところで少しであるが走れる状態になった。

合宿ではポイント練習はペース走、インターバル、距離走を各1回ずつのみの3回程しか出来なかった。それでもレースには何とか出れそうと言う感触が掴めただけでも満足だった。

日本に帰国し、レースまでの日々はもう数日しかない。「やれることをやる」と開き直ってからというもの焦る気持ちは自然と消えていき、むしろレースの日が近づいてくるのが逆に楽しみになっていた。

勝負の舞台、名古屋入り

レース3日前に名古屋入りし、コースの試走、最後のポイント練習を行った。 ポイント練習はあまり動いた感じはしなかったが、そんなことすらあまり気にならないくらい私は落ち着いていた。

そしてレース当日、3月の名古屋は晴天のマラソン日和だった。 最終選考会ということもあって、出場メンバーはかなり豪華なメンバーだった。シドニー五輪金メダリストの高橋尚子さんと同じレースを走ったのは、このレースが最初で最後のレースだった。

加納由理の2008年名古屋国際女子マラソン

スタートから勝負の30kmまで

12時10分の号砲でスタートし、私の2回目の北京五輪選考会が始まった。

2008年名古屋国際女子マラソンスタート前

監督の指示は「30km以降で勝負」ということだった。北京五輪への最後の切符をかけたレースは牽制し合う形で平均1km3分30秒くらいの予想通りのスローな展開で始まった。

中間地点でも20人近い大集団だった。集団の中で落ち着いたレースをしていたというより、周りの動きに惑わされず、完全に自分の世界に入っていたという感じだった。

距離が進むにつれて、ペースが上下する揺さぶりも出てきた。少しずつ集団が小さくなっていった。 27、28kmくらいでも大きな揺さぶりがあったが、そこでも落ち着いて対応することができた。集団はいつの間にか6名程度にまで絞りこまれていた。

勝負の31km地点からゴールまで

名城公園を過ぎたあたりの31kmの上り坂で予想通り大きな動きがあった。初マラソンの天満屋中村さんがすごいスパートを仕掛けたのだ。 ここで一気に5、6名だった集団がばらけた。

スパートに対応出来ず逃してしまったが、2番手で前の中村さんを追いかけた。34km付近で沿道にいた監督に「最後まで諦めずに追いかけろ!」と叫ぶ声が聞こえた。中村さんとの差は徐々に開いているのが走っていても分かった。

呼吸や身体にもまだ余裕はあるが、スピードに対応出来ずいっぱいいっぱいで走っている感じだった。必死に前を追うが一向に差が縮まらなかった。それどころか39km付近で後ろから追い上げてきた第一生命の尾崎さんに追いつかれ、抜かれてしまった。私はそのまま3番手で瑞穂陸上競技場へ戻ってきてゴールをした。

名古屋国際女子マラソンで得たもの

2:26’39”で3位のゴールテープ。先頭の中村さんから遅れること48秒。2位の尾崎さんとは20秒の差だった。

トップで競技場には戻ってこれなかったけど、この選考会を最後まで戦うのは自分一人では到底無理だったと思う。

優勝して五輪の切符は取ることはできなかったけれど、最終選考会に最後まで諦めずに挑んだことでそれよりももっと大事なことを得られたと思った。

私はこの大会を境に一人で戦うことをやめた。一人で戦っているとおごることをやめたという表現の方が適切かもしれない。私は一人で戦っているのではなく、私を支えてくれている周りの人たちの想いを大切し、その人たちのためにも途中で諦めることはせずに「優勝」を目指して強い気持ちを持って、トレーニングや競技に挑むことを心に誓ったのである。

2008年名古屋国際女子マラソン3位入賞した加納由理


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