2019月07年06日
自分を取り巻く環境の変化
今回は、前回に引き続き、私の回顧録をお伝えします。皆さんの中でも経験された方がいると思いますが、小学生から中学生になると一気に大人になっていきますよね。
親と関わる時間が特に多い小学校時代と比べ、中学校からは顧問の先生・部活の先輩・同級生など、自分の周りを取り巻く人間関係が一気に変わってきます。
私自身も、この時期から、「自分がこれからどうなっていきたいのか」、「どんな選手になっていきたいのか」を真剣に考え、自分自身と向き合うようになっていきました。
のちに日本代表のアスリートとなる加納由理が、実際どんな経験をし、どんなきっかけがあったのか、私の才能を引き出した指導者との出会いなどを含めて、その中学時代を振り返りたいと思います。
私に火をつけた先生の言葉、そしてジュニアオリンピックへ
小学生の時の楽しく走る練習から、中学では一気に本格的な部活に変わりました。私の経験上、中学生というのはトレーニングメニューよりも、生徒がいかに先生を信頼しているかで成績が変わってくるように思います。
1年生の時の顧問の先生は、陸上競技が大好きで、顧問を長年やってきており、数々の強い選手を育てた先生でした。
練習に対して本気でやらないと、とても厳しい先生でしたが、毎回の練習で「どんな目的でその練習を行うのか」など、きちんと伝えてくれる先生でした。
事前に練習の目的を把握できたからこそ、先生の厳しい練習も乗り越えることができたのだと思います。
スポーツでも、仕事でも目的がしっかりとしていれば、厳しさを乗り越えることができるのではないかと思います。
もちろん、そこには指導者と選手の間に、良い人間関係や信頼があるということが前提にあると思いますが。厳しい中にも愛情があり、私たちを成長させたいという先生の想いを私はとても感じていたと思います。
そして、この先生の一言が私に火をつけたのです。それは、中学に入って最初の大会が5月の東播地区の記録会でした。
出場種目は800m。
結果は、2分29秒台で1着!
小学生の時の自己ベストが2分37秒でしたので、「たった1ヶ月の練習でこんなにタイムが伸びるの?」 と、自分でも驚きました。
先生からも「夏までに2分25秒を切れれば、東京の国立競技場で行われるジュニアオリンピック※に出られる!」さらに「ジュニアオリンピックが決まったら、ディズニーランドにも連れて行ってやるぞ!」と言われたのです。
※ジュニアオリンピック・・・将来のオリンピック選手育成を目的として行う若年層向けスポーツ競技大会で、Aクラス(中学3年生)、Bクラス(中学2年生)、Cクラス(中学1年生)に分かれて競技が行われる。
この言葉にやる気が起き、「絶対に2分25秒を切る!」という強い思いで日々の練習に取り組みました。
そして、何度か挑戦をし、最後のチャンスの記録会だったと思います。
タイムは
「2分24秒5!」
ジュニアオリンピック出場の参加記録突破です!
先生は、私のゴール直後に走ってきて、「おめでとう、ミッキーに会いに行くぞ!」と満面の笑みで言ってくれました。
私は、目標を達成し、走ることの喜びを強く感じることができたのです。
厳しい練習を乗り越えて、結果をつくりだすことができたのは、
先生が私の願望を引き出してくれたことが大きかったように感じます。
私自身は、小学校時代から「国立競技場で走りたい」という憧れがありました。そして、先生はその私の想いを汲み取って、「国立競技場で行われるジュニアオリンピックに出よう」とゴールを設定してくれたのです。
そのゴールに向かって、私の願望に訴えかけ、やる気を起こしながら指導をしてくれた先生の影響力は大きかったのだと思います。
改めて考えていくと、その顧問の先生がたくさんの強い選手を育てたのは、私たち選手の願望を引き出し、「その気にさせる」技術が優れていたのではないかと思います。
指導者に恵まれずに伸び悩む私
しかし、良いことは続きませんでした。陸上部の顧問の先生が2年生の時に 変わってしまったのです。2,3年生の時の顧問の先生は、陸上競技の未経験者。練習メニューを与えれば良いと思っているような顧問の先生でした。
私は地元の公立中学に通っていたので、在学中の先生の転任は仕方がありません。中学1年生の時は、熱心な先生の指導のもとで順調に伸びた私でしたが、2,3年生は一言で言うと そこそこの走りで終わってしまいます。
正直、その先生のことは信頼していませんでした。表面的なことばかり気にして、自分勝手な行動や考えをしているようにも見えました。また、そもそも陸上が好きではない指導者を尊敬し、信頼することはできないものです。仕事もスポーツも同じですが、そこに愛と情熱を注げないリーダーに人はついていきたいと思えないです。
最初はどうにか置かれた環境で頑張ろうと思いましたが、所詮は中学生です。 やはり熱心な指導者がいてこそ苦しい練習もレースも頑張れるのです。
信頼できる指導者がいない中で苦しんだ私。それでも目標を持ち、走り続けられたのは、本当にダメになりそうな時、一緒にフィードバックをくれた父親、食事管理をしてくれた母親、他の学校のライバルの存在があったからだと思います。
そして、私が走りたいという気持ちが失われなかったのは、小学生の時にテレビで見た、京都の「全国高校女子駅伝」に何としても出たいという気持ちがあったからだと思います。
失敗の中から生み出されたレーススタイル
私の中学での最大の目標は「全国中学選手権大会」に出ることでした。 「全国中学選手権大会」に出るには参加標準記録があるのですが、大会に出るためには指定された大会で標準記録を突破しなくてはなりません。
私は、2年生の時は800m、3年生の時は1500mで大会出場を目指していました。
おそらく、当時の出場タイムは
800mが2分18秒00
1500mが4分45秒00
しかし、私は指定の大会で参加標準タイムを切ることが出来ず、「全国中学選手権大会」に出るという目標は達成できずに終わりました。
私の中学時代の800mのベストタイムは2分17秒5、1500mが4分37秒8でしたので、実力からすると参加標準記録を突破することは難しいことではなかったのです。
実力はあったのに、「ここぞ」という場面で力が発揮できなかった理由の一つは、『自分を見つめる力』の弱さでした。中学生の私には、自分の状態をしっかりと理解してレースに挑む判断力がなかったのです。
この時に「レースの作戦がわからないから、スタートからラストスパートと思って全力で挑む」という、無謀とも思える心構えが培われました。しかし、そのスタイルは、大学生で学生チャンピオンになった時に活かされたのです。
15歳で身につけたスタイルが、20歳で形となって現れました。どこでどんな形で現れるか分からないですね。
やりたいことに反対しなかった私の親
中学3年の秋、両親に「全国高校女子駅伝に出たいから、須磨女子高校(現:須磨学園高校)を受験したい」と話しました。
須磨女子高校は神戸市須磨区にあり、私の実家からは通学に往復3〜3時間半かかるような場所です。
私の地元では元の公立高校を受験するのが一般的なので、私立に通う子は結構珍しいのです。
親からすると最初は、「何か、ハードルが高いこと言い出したな」と思ったことでしょう。しかし、 私の言ったことに反対することは無く、「高校駅伝に出ることはあんたの夢やったし、そんなに行きたいんやったらいいよ」 とあっさり許可が出ました。
家から遠い学校に行くことは、毎日送り出す親も大変だったと思います。
大変な中、私のやりたいことをとことんやらせてくれた親の判断は今、私が新しい分野でも成長していきたいと思っていることにつながっています。
まさかの推薦。理想の指導者が向こうからやってきた
須磨女子高校を受験すると決めてから数日経った頃、練習中の私の前に須磨女子高校の陸上部顧問、長谷川先生が現れたのです。 市内の他の学校の先生が、「加納は今後面白い選手だから、ちょっと会いに行ってあげて下さい」 と言われ、わざわざ神戸から来てくれたそうです。
私の姿を見てくれていた人がいたことに、感謝の気持ちでいっぱいになり、新たな先生との出会いで、ワクワクしてきました。
目標を持ち走り続けた結果、自分の行きたいと思っている学校の顧問の先生自らが私に会いにきてくださり、勧誘してくれるなんて。
こうした奇跡が生まれたのも、私の結果が低迷し、伸び悩んだ時、何とか私の気持ちをあげようと、影で支えてくれた両親の影響が大きかったと思います。
一人ではトップアスリートになれない。だから指導者の影響力は大きい。
私は中学3年間では練習以外での学びが多かったと思います。
1番は指導者が途中で変わったことでした。
いい指導者に出会えるのも運ですし、もし自分に合わない指導者であれば、自分でどうなりたいか、どうしたらそうなれるのかを追求し、自分で行動することが成長へとつながることを知りました。
しかし、自分で考え自分1人で成長することは難しいです。
私がここで言いたいのは、いくら素質や実力があっても自分1人ではトップアスリートにはなれないということです。
指導者が選手の願望を引き出し、さらに高みを見せてくれるから、頑張れるものです。また、選手にとって現在地を教えてくれるのも良い指導者なのではないかと思います。現在地がわかるからこそ、目標に向かって何をどうするかという戦略が得られるものです。
もちろん、指導者任せになってしまうと選手の自主性が育まれず、依存してしまえば逆に自己成長ができなくなってしまいます。
その点で、私は中学1年で先生に徹底的に引き上げてもらい、2,3年の時、自分で試行錯誤したことは、両方良い経験だったと思います。
そして、最後に競技をやる上で、1番近くで支えてくれた両親の存在が大きかったと思います。迷った時の親や指導者の支えは本当に大きいです。レベルが上がれば上がるほど、悩みや乗り越えなくてはならないことは沢山あります。
世界で戦ってきた私ですら、落ちそうになった時には何回も親に支えられてきました。
自分が目指すべきことに反対もせずに、常にサポーターでいてくれた父と母には感謝しきれません。今、子育て中のお父さんやお母さんがこのブログを読んでいたら、「お子さんの1番の支援者」になっていただくことをお勧めいたします。
今回は、加納由理がどのようにトップアスリートになっていったのかということで、中学時代を振り返ってきました。改めて、大きな目標に向かうプロセスには、多くの人の支えがあったということです。指導者しかり、親の愛情しかり、一人でトップアスリートは育つものではないのです。
だからこそ、改めて多くの人に感謝し、引き上げてもらっていることを実感しています。
お読みいただいている方も、日々お仕事やスポーツなど頑張っている方も多いと思います。改めて、周りのパワーを自分のパワーにして、大きな目標達成をしていただければと思います。