2019月07年19日
オリンピックへの挑戦
大阪国際女子マラソンを選考会に選ぶ
1年前にここで初マラソンをした時から来年のオリンピック選考会はここにしようと決めていた。
※初マラソンについてはコチラをお読みください
2007年大阪国際女子マラソン(初マラソン)回顧録
4年に1度のオリンピック。
スポーツをやっている人なら一度は夢見る舞台。
29歳にして、初めてオリンピックの舞台を本気で意識した。
初マラソンを2時間24分43秒で走り、つづく2度目の北海道マラソンでは30度を超える暑さの中、優勝した私は周囲からも「次はオリンピック」という期待をかけられる存在となっていた。
続く不調
しかし、私の身体はというと、1月のオリンピック選考会が近づいてきている11月(マラソン本番3ヶ月前)になっても一向に調子が上向く気配がなかった。それどころか2ヶ月前の北海道マラソンのダメージが残っており、同月の神戸女子ハーフマラソンでは73分以上かかる始末で、レース自体にも全く集中出来ていない状態だった。
マラソンとはつくづく不思議なもので、頭が「疲労が抜けない」、「調子が上がらない」と思い込むと、実際に疲れが抜けにくく、調子の低迷が長引くことが多々ある。
気持ちを切り替えなければ
神戸女子ハーフの結果を受け、「流石にこのままではまずい。いつまでも調子が上がらないと思っているわけにはいかない」と気持ちを切り替えることにした。「調子は必ず上向く。今は選考会に向けてとにかくやれることをしっかりやる」と前向きに取り組むことにした。
主体性を重んじるチーム
当時、私が所属していたセカンドウインドACは、当時主流であった徹底管理型の実業団チームとは異なり、自主性を重んじた指導方針だった。故に基本走ること以外は自分で自己管理しなくてはならない。
合宿中はコーチやマネージャー、トレーナーなどと生活を共にするが、それ以外の時の食事や筋力トレーニングなどは自分で考えて、決めてやることになっていた。
マラソン選手の自己管理
よく女子選手は管理されないと競技者として伸びないと言うが、自己管理できる人が周囲の力を借りるのと、自己管理できない人が周囲に依存するのとでは根本から違うように思う。自己管理はもちろん大変ではあるが、学生の頃から自分で色々決めてやることに慣れていたので、私にとっては徹底的に管理され縛られるより、自己管理を前提に周囲の力を借りる体勢は非常に合っていた。
マラソン練習をしながら、食事の内容や量にも気を使うようにして、少しずつ身体を絞っていく。あとになって振り返れば絞れ過ぎだったかもしれないと思うタイミングでトレーニングの場所をこれまでのマラソン前と同様、アメリカのアルバカーキに渡り、最終の強化合宿に入った。12月下旬のことだった。
再びアルバカーキでのマラソン練習
ギリギリの一線
合宿入りして1週間くらい過ぎた頃だった。左足の足底を痛めてしまったのである。振り返れば、日本でトレーニングをしていた時からちょっと嫌な感じはしていた。マラソン選手でどこにも違和感を一切抱えていないという人はむしろ珍しいというくらい皆ギリギリの中でトレーニングをしている。「練習しながらでも何とかなるだろう」と甘くみていたが、結果的にアルバカーキでのトレーニングは「何とか」の一線を越えてしまった感じだった。
足底の痛みとの戦い
私は偏平足で足裏の筋力が弱いため疲労がたまりやすい傾向があった。トレーナーからは、日頃から足底のケアはしっかりするようにと言われていた。ちょっと気になる程度なら何とか様子を見ながら練習を継続できるのだが、ごまかしても走れるような感じではなかった。
足底を痛めて1週間ほどは完全に走るのを中止し、水泳、自転車、筋力トレーニング中心になり、とにかく足底の回復に努めた。
走らないとは言え、体力が落ちないようにするためにも、体重が増えないようにするためにも、ほぼ1日中身体を動かし続けるのである。それは精神的にかなりきつい。
強引な練習再開
1週間が経ったがなかなか良くならなかった。焦りがピークに達し、「流石にレースまでに時間が無い」と強引ではあるがマラソン練習を再開することにした。
足底の痛みと高地トレーニングの苦しさがダブルパンチだった。アルバカーキの寒さもあってか走りながら涙がこぼれることもあった。とにかく頭の中では「選考会を走らないとオリンピックには繋がらない」という思い。追いつめられながらも意地でやっていたのだと思う。レース当日には怪我が治っているのではないかという淡い期待を胸に秘めながら。
一向に消えない痛み
痛みと戦いながらも何とか練習をこなし、いつも通りレースの10日前に帰国した。足底の痛みと練習不足の不安からか1月の東京は例年以上に寒く感じた。
レース本番前はテーパリングと呼ばれる練習量を落として調子をあげていく調整期間に入る。「練習量が落ちれば足の痛みも軽減する」と期待していたが実際は変わらなかった。
大阪国際女子マラソンに向けてテレビや雑誌の取材を受けるのだが、足の不安を隠しながら、受け答えをしたり、軽く走ってみたりするのは精神的にしんどかった。
まさかの最終調整
レース3日前になり大阪入り。大阪城公園で最終調整のポイント練習として1kmを2本行った。これが致命打となった。何とか走れそうな痛みは、これはマズいと感じる深刻な痛みになってしまったのである。
監督は当然、私の足の痛みのことは知っている。しかし、お互いにレースを棄権するということは頭になかった。
何とかなる
普通に考えると「脚が痛いのになぜ走るの?」と思われるかもしれないが、長い時間をかけて大会のためにトレーニングを積んできていて、ましてやチャンスは4年に1度のオリンピックとなると、状態がどうであれ自分の可能性を信じずにはいられない。多少強引であってももしかしたらレースでは痛みが消えて走れてしまうのではないか?と思ってしまうのである。
私はこれまでの競技人生の中で怪我を押してレースに出るのは初めてだった。それでも「何とかなる」と、自分を信じ、監督・トレーナーと相談し、痛み止めを飲んで、レースを走ることにした。
大阪国際女子マラソンのレース
最後まで奇跡を信じる
この年の大阪国際女子マラソンのレース当日はとにかく寒かった。スタート地点の長居陸上競技場に移動しウォーミングアップを開始しようとする頃には雪がちらつき出していた。その影響なのかなかなか身体が温まらず、足元の痛みも「何とかなる」気配はなかった。
定刻になり号砲。一斉にスタートし長居陸上競技場から長居公園へ飛び出し公道へと出て行くのだが、実はそこからのことはあまり覚えていない。とにかくスタートしてからも足の痛みと寒さの影響からなのか、思い通りに身体が動いてくれなくて、呼吸も苦しかったことだけを覚えている。
止めれば消える
次第に苦しさと痛みが集中力を奪っていく。10km地点と15km地点の給水所で自身のスペシャルドリンクを取るのを失敗してしまう。更に気持ちが動転し、レースから気持ちが遠ざかっていく。そして先頭集団から遅れていく。「まだ15kmなのにまずい」と思いつつも、もうこれ以上では走れないというのは自分では分かっていた。それでも自分からレースをストップすることはできなかった。
「止まればそこでオリンピックは消える」
その勇気はなかった。
そして、私の異変に気付いた監督の制止により17km地点で私のレースは終了した。人生初めての途中棄権だった。
オリンピックを諦めたくない
初めての途中棄権
途中棄権をした直後は、レースを棄権したことを認めたくない自分と、やり場のない気持ちをどこにぶつければ良いのかわからない自分がいて、現実を受け止めることができなかった。徐々に冷静になっていくにつれて大事なレースを不本意な状態で挑んでしまったことがあまりにも情けなく、できることならこの場から消えてしまいたいと思っていた。
思いもよらない提案
「私の北京五輪選考会は終わった」はずだった。
しかし、レースの日の夜に監督から思いもよらない提案を受けた。それは「名古屋で北京五輪の最終選考会に再チャレンジするか?」という話だった。
もちろん走りたい。しかし、私の足の怪我はすぐに治りそうな状態ではない。ましてや大阪国際女子マラソンから名古屋国際女子マラソンまでの期間はたったの40日しかない。怪我を治して、マラソン練習をしてと冷静に考えれば間に合うという答えはでないのは明らかだった。
名古屋国際女子マラソンでのリベンジ
それでも諦めたくなかった。「結果がダメでも、出来る限りのことをやって全て出し切った方が次に進める」と思い、私は名古屋国際女子マラソンでオリンピックに再チャレンジすることを決めた。
翌日、東京へ帰り、病院で検査した。医師からは足底筋膜炎と診断され、当分は安静にしながら痛み止め注射と薬で様子を診ましょうと言われた。
不安を抱えながら
しかし、出ると決めたからには、安静にしている場合ではなく、すぐにでもトレーニングに入りたい。私は左足の痛みは一向に消える気配がない中、再びアメリカのアルバカーキに飛んだ。
アルバカーキへと飛んだ加納由理を待ち構えていた苦難とは…!?