2019月07年19日
28歳で初マラソンに挑戦
初マラソン適正年齢は・・・?
高橋尚子さんがシドニーオリンピックでマラソン優勝したのが28歳、ポーラ・ラドクリフさんがマラソンで世界の頂点に立ったのが29歳であることを考えると、初マラソンが28歳というのはギリギリの年齢だったかもしれない。
ずっと「マラソン適性あり」と言われながらも、なかなか踏み切ることが出来ずに28歳になったのは、陸上競技トラック種目に強いこだわりがあったから。ずっと「1度でいいからトラック種目で世界で戦いたい」と思い続けてきた。
その思いは叶わず、マラソン転向となったわけだが、学生時代、実業団とトラック種目や駅伝で世界の強豪たちと勝負してきた分、初マラソンは何の不安もなくレース当日を迎えることが出来た。
駅伝とマラソン練習を並行して行う
実業団というのは、個人のマラソンもさることながら、チームで出場する駅伝での結果というのが非常に重視される。そのため所属しているチームのために12月の全日本実業団女子駅伝で1度ピークを作らなくてはならない。 私が所属していた資生堂というチームは優勝を狙っていたため、エース格である私は11月と12月は駅伝練習中心のトレーニングだった。
12月の全日本実業団女子駅伝でチームは念願の優勝を果たした。 優勝を目標においてから、6年越しの初優勝であった。 チームメイトと喜ぶのもつかの間、私は駅伝から6日後には次のレースを予定していた。
フルマラソン本番前に最後のハーフマラソンレースとして位置づけていた「山陽女子ロードレース」である。 駅伝から集中力を切らすことなく、ハーフマラソンにのぞみ、日本人トップの総合4位でまとめることが出来た。
マラソンに向けたトレーニング
まさかのアルバカーキ
そこからアメリカ合衆国ニューメキシコ州の中央部に位置する高地都市アルバカーキに渡り、大阪に向けてのトレーニングを開始する。短期間ではあったが、初めての高地でのマラソントレーニング。 今でこそアルバカーキはマラソントレーニングのメッカ的な場所になったが、当時はまだ経験者も少なく、情報が少なかったためワクワクとドキドキな気持ちが混じっていた。
半砂漠の年で乾燥しているから冬も雪が降らないと聞いていたが、「さあ、トレーニング開始!」という日にいきなりの大雪だった。アルバカーキでは50年ぶりの大雪だった。 なかなか雪が止まず、予定していた練習が出来ない日々が続き、自分ってなんてついてないんだろうと思っていたが、監督から「駅伝終わってから休んでなかったし、いい休養になる」と言われ、「言われてみればそうだな」と気持ちが楽になった。
感謝の気持ちを原動力に
冬のアルバカーキはとにかく寒い。朝はマイナス10度もザラである。やっと雪が止んだと思うと、今度は降り積もった雪がなかなか溶けてくれない。 数日が経ち、さすがに焦りが募ってきた頃に、ようやく陸上競技場トラックのコースが走れるようになった。スタッフたちが「何とかしよう!」と足腰を痛めながら雪かきをしてくれたのだった。たった1レーンでも雪の中に生まれた何とも力の湧く走路だった。自分の為に走れる環境を作ってくれることに、とにかく感謝の気持ちでいっぱいだった。
雪が降ったおかげで3週間走り込みのはずが、10日くらいしか走り込みが出来なかったが、練習自体はとにかく日々追い込んで本当にきつかった。ある日の昼間の練習後はベッドに転がりこむと夜まで起きあがれないくらい疲れた時もあった。
集中的トレーニングは全身の心地良い疲労感と共に無事に終了し、マラソン本番10日前に日本に帰国した。高地滞在することで血中の赤血球のヘモグロビン濃度を高め、持久力の向上を期待する高地トレーニングだが、本番直前は疲労を抜き、体調を整えなくてはいけない。
しかし、帰国後3、4日は時差ボケでとにかく眠たくなる。 が、ここを我慢して22時まで起きてみたり、時差ボケ対策も当時はまだ慣れていなかった。
マラソン前の最終調整
最後の国内での調整練習も順調に進み、特に初マラソン本番に向けて不安材料はなかった。 ただ、気がかりだっだのは32キロ以上の距離を連続して走ることが、マラソン当日が初めてになるということだった。それも考えても仕方ないので、やってきた練習を信じて「大丈夫」と自分に言い聞かせる。
レース前、2日前は体にエネルギーを蓄えるためにとにかく食べまくる。 1食で、パスタ大盛り2人前、もしくはごはん3合とかをペロッと平らげる。
レース前日、合同記者会見に出席し、記者の前で今回のレースの抱負を話した。 正直、人前で話すことが苦手で、おそらく顔も引きつっていただろう。緊張していたこともどんなことを話したのか覚えていないが、レースの目標タイムは2時間23~24分台に設定していた。
いよいよ大阪国際女子マラソンがはじまる
レース前の食事や寒さ対策
レース当日、朝は散歩程度に身体を動かし、最後の食事をとる。 ここではお腹がいっぱいにならない程度にご飯、お餅などを食べる。
スタート、ゴール地点の長居陸上競技場にレースの2時間ほど前に到着し、ウォーミングアップまでの時間、ストレッチしたり、好きな音楽を聴いたりして、集中力を高め、レース1時間前くらいから少しづつ走って体を動かし、温めていく。
冬のマラソンの為、寒さ対策として手袋とアームウォーマーを装着した。体にはまんべんなくオリーブオイルをベタベタにならない程度に塗った。発汗による放熱を防ぎ、防寒の効果がある。
これで準備はOK。後は号砲を待つばかりである。初マラソンだった私は招待選手の中でも末のゼッケン番号「40」。 最前列の一番端からのスタートだった。
緊張と共に進むレース
レースを走るにあたっての監督の指示は、初めてのマラソンだからとにかく欲を出さず、確実走り切れるようにという指示だった。
このレースではペースメーカーがついていたので、私は5キロ17分前後でラップを刻む第2集団のグループでレースを進めていった。 15km地点くらいまではマラソンレースを走っている自分が不思議に感じていた。ちょっと緊張していたと思う。
レース後半の駆け引き
距離が進むにつれて集団で走っていた人数も少なくなってきて、27km地点ではペースメーカーと小崎さん(ノーリツ)と私の3人になっていた。 この地点では、まだ私たちの前に2人選手が走っている。30kmあたりでペースメーカーがコースを外れ、ここからは相手との駆け引きと自分との戦いが始まる。
ここまでは何か初めてのマラソンレースを楽しんで走っている感覚だったが、大阪のコースは30km以降は直線が長くて、それが単調に感じられ、ちょっと精神的にもしんどくなってきた。ふとした一瞬で小崎さんがスピードをあげ、対応できなかった私との差はすぐに5秒ほどついてしまった。
苦しいのは自分だけじゃない
35km地点、監督が逆側の歩道から私に叫んでいる。「苦しいのはお前だけじゃない。みんな苦しいんだ。最後まで何が起きるかわからないから、絶対に諦めるな」と。
「絶対に諦めない!」と自分を鼓舞するも、既にこの時点で私は、今までに味わったことのない脚の疲労感に襲われていた。ちょっと踏ん張ると筋肉が攣ってプチっといってしまいそうな感覚だった。
肉体は限界に到達していても、監督の言葉や、沿道の応援で何とか一歩一歩脚を前に進めていくと、残り4km地点で、少し気持ちが楽になってきた。「ここからゴールまでは脚がどうなろうとも走り切ってやる!」という気持ちに変わった。
何とか順位を1つ上げて、私は3番目で長居陸上競技場に戻ってきた。
優勝の原さん(京セラ)には50秒、2位の小崎さんには4秒及ばなかったが、目標通りの2時間24分43秒で初マラソンを走りきることができた。
マラソンで世界に通用する選手になりたい!
とにかく無事に走り終えた嬉しさは大きかった。眺めて見ていただけのマラソンはとにかく大きくて、果たして自分のものにできるのか不安だったんだと思う。いざ、実際に走りきってみると、そのマラソンという底の見えない大きさはあるものの、自分も成長していけば、きっと自分のものにしていけるという感覚をもつこともできた。そして、私はこのレースをきっかけに「マラソンで世界に通用する選手になる!」という、目標を持つことにしたのである。
とは言え、レース直後から、経験したことのないレベルの全身筋肉痛に襲われ、脚も引きづり、まともに歩けない状態で、監督から「情けないな」と笑われたが、頑張った選手にもう少しねぎらいの言葉をかけてよという感じだったのを覚えている。