2019月07年19日
新たな出発と壁
セカンドウインドへの転身
2度目のフルマラソンは初マラソンの大阪国際女子マラソンから約半年後の真夏のレース北海道マラソンだった。
期間としては半年強なのだが、その間に大きな転機があった。6年間所属してきた資生堂を2007年3月に退社したのだ。そして、同年4月に資生堂の監督だった川越監督が立ち上げたクラブチーム「セカンドウインドAC」の所属選手として、マラソンで世界を目指すことになったのだった。
ぶち当たった壁
クラブチームでの競技生活はこれまでの実業団でのそれとは異なり、クラブの会員さんたちと練習会などでコミュニケーションする。実は私が壁にぶち当たったのは、走ることではなく、このコミュニケーションだった。
私は自分でも情けなくなるほどの人見知りであった。声をかけられてもどうして良いのかわからずに、「あ、はい」とボソッと応える程度が精一杯だった。今でもまだまだと言われそうだが、当時は本当に愛想が悪かったと思う。本当に申し訳なかったなと反省しています。そのくらい私に対しての第一印象はとにかく悪かったと思う。
環境が変わったことで、心身に様々な変化があり、競技の方も春先は集中できていなかったように思う。セカンドウインド移籍後のトラックレース、10kmロードレースは残念な凡レースが続いた。
世界陸上マラソン補欠と北海道マラソン
初マラソンだった1月の大阪国際女子マラソンで2時間24分43秒で3位に入った私は8月に大阪で開催される世界選手権の女子マラソンの代表補欠に選ばれていた。
もし選手が万が一の理由で走れなかった時には補欠の私が走る可能性があった。なので本番を走る可能性は限りなく低い中でマラソンを走る準備はしておかなければいけなかったのだ。
監督からは「補欠は無いものとして、北海道マラソンにだけ焦点を絞って取り組む」と言われていたし、自分でも補欠の自分で走るということは全く想定していなかった。
なので、世界選手権に選ばれた5名の選手が無事にスタートラインに立ってくれることを祈りつつ、「マラソンで優勝する」という結果をつくるべく世界選手権大阪大会の1週間後の北海道マラソンにエントリーした。
マラソン練習と調整
合宿に入り調子が上向く
同年の6、7月は、アメリカのボルダー・アルバカーキを拠点に走り込んだ。競技に集中しやすい合宿に入ったこともあり、やっと春先の不調から抜け出せてきて、少しづつ身体も絞れてきて、調子も上がっていった。
帰国後は北海道の深川市で最後の調整をおこなった。絶好調とまでは言えないものの、何とかいけそうだな、といった手応えは感じていた。そのまま自宅のある東京へは帰らず、深川から直接札幌へ移動するというスケジュールだったため、いつものレース前とは違った緊張感があった。
マラソン前のカーボローディング
今回も食事はカーボローディングというレース1週間前から少し炭水化物の摂取する量を減らし、レース3日前からは逆に炭水化物を増やすことで体内に貯蔵するグリコーゲン量を増やすという取り組みをした。
合宿地の深川でスタッフたちが行けつけだった焼き鳥屋のおじちゃんからいただいたアップルパイもしっかり平らげたのを覚えている。レース前に遠慮無く食べられることは日頃から食事に神経をつかっている身としては心も勝負に向けて満たされていく感じである。
真夏の北海道マラソン
暑さに気持ちで負けてはいけない
通常は8月末の最終週に行われる北海道マラソンであったが、大阪で世界陸上があったため北海道マラソンの開催日が例年より1週間後ろにずれて、9月9日の開催であった。
夏マラソンの北海道マラソンはかなり暑いイメージがあったが、9月なら少しは涼しいだろうと思っていた。しかし、大会前日に台風が過ぎ去ったため、レース当日は台風一過の影響で計算外の暑さになってしまったのである。スタート前の正午には既に温度計は29度を示していた。
「暑さなど気にしても何も変らない」そう自分に言い聞かせた私はこの暑さの中でも優勝はもちろん自己ベストに近い走りを目標に設定したままスタートした。
前半から飛ばして5kmを16分50秒というハイペースで突っ込んでいった。女子の中では独走状態にすぐになったが、北海道マラソンは男女同時スタートのレースなので、周囲には自分と同じくらいのペースの男子ランナーたちがいたので、そのまま流れに乗り、5km、10km、15km、20kmと順調にラップを刻んでいった。確か中間点(ハーフマラソン地点)の通過が、72分30秒位だったと記憶している。
身体に異変が・・・
ハーフを通過してから、25km手前で自分の身体の異変に気づく。頭がフワッとする感じがしてきて、レースに集中することができなくなってくる。それどころか、次第に頭がボーッとして身体に力が入らなくなってきてしまったのである。
この異変を自分の中に受け入れてしまうと、一気にペースダウンしそうだったので、これまで3分25秒~30秒/kmで刻んでいたペースが、徐々に3分30秒~40秒/kmとペースダウンしてきていたが、「これは気のせいだ」と自分に言い聞かせながら、何とか30km地点までは乗り切った。
だが、それもさすがに限界に近づいてくる。30km以降は意識こそしっかりしているものの、頭が痛過ぎて、片耳は鼓膜がキーンっと突っ張り、周りの声が聞こえない感じすらしてきた。
熱中症を越えて
後で知ったのだが、これらは完全に脱水による熱中症の症状であった。私は高温炎天下の中のレースであったのにも関わらず、暑さ対策のキャップをかぶることもしていなかった。完全に夏のマラソンを舐めてかかっていたのである。意識までも朦朧としてくる中で、「とにかく無事にゴールまで走りきる」と言う執念にも似た気持ちだけで走り続けた。
意識がボーッとしている中でも、大通公園のテレビ塔の温度計が『32℃』を表示していたのは覚えている。最後の中島公園に戻るまでのラスト2、3kmは本当に意識が遠のき切れそうだったが、沿道の応援を力に何とかゴールすることができた。結果、2時間30分43秒のタイムで優勝することができた。
2位に2時間33分00秒で小林雅代さん、3位に2時間33分39で資生堂時代の先輩の弘山晴美さんが入った。目標タイムにこそ届かなかったものの、悪条件の中で最後まで走り切って優勝できたことでホッとしたという感じだった。
優勝後にもう力は残っていない
ゴール後は直ぐにドーピング検査を受けるために、書類に名前を書かなくてはいけないのだが、署名したところで私は力尽きてしまった。
すぐに医務室に運ばれ、対応を測ると、熱中症により体温は40℃まで上がってしまっていたのである。点滴を受け、2時間ほどで何とか歩けるくらいまでは回復した。
優勝者はテレビでの優勝インタビューがあるのだが、話せる状態ではなかったため、代わりに監督が応えるという苦い思い出となった。監督は新チームとして『優勝』という結果が出せたことを喜んでくれた。
北海道マラソンで学んだこと
マラソン後の不調
マラソンによる筋肉疲労は1週間ほどでほとんど回復するが、筋肉疲労よりも内臓疲労と呼ばれる消化器系の不調はもっと長引くことがある。しかし食欲はすぐに戻り内臓疲労も感覚的に1、2週間程度で回復したのだが、その後も走りにはキレを欠いていた。貧血というわけでもなく、どう対処して良いのかわからない中で、練習はこなせるものの、ずっとだるい感じの不調が続いていた。
年明けの1月には北京オリンピックの代表枠をかけた選考レースがあったので、マラソン練習をしなきゃいけない状況であったのにも関わらず、結果的にマラソンのダメージは10月いっぱいまで続いたのだった。
辛酸をなめて教訓を得る
今、振り返ると真夏のレースで熱中症を恐れずに何も対策していなかったことは自殺行為だったと思う。結果的に今回のレースでの教訓を生かし、この先のレースでは万全過ぎるほどの暑さ対策と寒さ対策を慎重にするようになったのである。
2回目のマラソンはとにかくきつかったという記憶と、世界大会のレースは夏のレースなのでしっかり対策すべしという教訓を残したレースとなった。