2019月07年19日
全国都道府県対抗女子駅伝競走大会を夢見て
憧れの兵庫県のユニフォーム
年末年始が近づき世の中に「駅伝」という言葉が飛び交い始めると私は思い出す大会がある。それは小学生の頃から出たいと夢見た大会でもあった、年明けに行われる「全国都道府県対抗女子駅伝(現 皇后杯 全国女子駅伝)」である。
フルマラソンと同じ距離の42.195kmを9人で襷を繋ぐ姿をテレビで観ながら都道府県の代表として名前を背負って走っている姿に憧れ、いつかは兵庫県の名を背負って走りたいと願っていた。
兵庫県チームの惨敗
都道府県対抗女子駅伝を初めて生で見たのは、1995年1月16日、高校1年生の時だった。高校の先輩が兵庫県代表として選出され、出場したので京都まで応援に行ったのである。
しかし、残念なことに私の地元である兵庫県チームは過去最低の記録である25位と結果振るわず終わっていた。応援に行った帰りの車の中では暗い雰囲気が漂っていたのを覚えている。
突然奪われた日常
大会翌日、私はいつも通り朝練習に参加するために朝5時に起床し、学校へ行く準備をしていた。5時50分の電車に乗るために、家の2階に荷物を取りに行った時だった。「ゴゴゴォォーーーー!!」という聞いたことのない恐ろしい音が響き渡った。同時に家に何かがぶつかってきたかのような大きい揺れが起きたのである。
1995年1月17日朝5時46分 阪神淡路大震災である。
恐怖
今まで経験した地震とは桁違いの音と揺れに、これが地震であると思うまでは随分と時間がかかったように思う。地震が落ち着いて、ひとまず電車が動くか分からないが、自転車で駅まで行ってみることにした。電車が動かないことがわかり、家へ戻りテレビをつけた。
震災発生から数時間経ち、テレビを見て、改めてこの地震の大きさを知ったのである。私が当時通っていた須磨女子高校(現 須磨学園)は、神戸市の須磨区にあったため、被災地の中心部であった。テレビで阪神高速道路が倒壊している様を見て、昨晩、駅伝の帰りにこの道路を通っていたことを思うと、とてつもない恐怖が襲ってきた。
(出典:災害写真データベース)
震災が残したもの
不安との戦い
電車が復興するまではもちろん学校には通えなかった。まだ高校1年生だった私は、学校へも行けず、陸上部の仲間とも連絡もとれず、会う事もできなかった。「これからどうなるのだろうか?」という不安に押しつぶされそうになりながらも、今の自分は走ることしかできないと思い、毎日6~10キロのペース走を走り続けた。
震災から2、3週間が経ち、明石駅まで電車が行けるようになり、ここで陸上部の監督と先輩3人と合流することができた。部員全員に会えたわけではないが、地元の近いメンバー数人だけでも集まれたことで気持ちもホッとした。それから、明石公園に来れるメンバーだけ集合して練習を再開することにした。
今できることをしよう
合同合宿をしていた他県の学校の先生たちから陸上部顧問の先生へ心配と気遣いの連絡があったそうだ。「自分達は走って元気にやってます!」という姿を見せないといけない、とみんなで話してたのを覚えている。
震災から1ヶ月少しして、やっと学校へ通えるようになった。異様な空気、焼けたような匂いの残るところを通って通わなくてはならなかったので、気分的にかなりしんどかった。自分はこんな大変な時に学校に通って、陸上競技なんてしていていいのかな?と、思ったりした時もあった。でもこんな時だからこそ、自分たちのできることを頑張ろうとも思った。兵庫県の陸上競技関係者の中でも「都道府県対抗女子駅伝で結果を出し、兵庫県民を元気付けよう」とチーム強化に本格的に取り組み出したのである。
不調と貧血
ところが、震災の影響なのか、私の体調は低迷を続けた。春先まで体調が悪く、人生初の貧血になった。いつもならちょっと苦しいくらいの練習でもすぐに息が上がってしまい、みんなの練習についていくことができない時もあった。2年生に上がり後輩たちが入ってくるのに、練習に全くついていけない自分に焦りを感じていた。
都道府県対抗女子駅伝初出場
惨敗からの躍進
大震災から1年後、兵庫県チームは一丸となり、昨年の25位から一気に5位に躍進した。高校の一つ上の学年の先輩達が活躍した結果は大きかった。まさに駅伝で兵庫県民を元気付けるという公約を体現したのだった。その姿に私自身も触発され、「来年こそ私は学校のエースになってこのチームの一員として走りたい」と強く思った。
まさかの5区区間賞
そしてその翌年、高校3年の時に遂に都道府県対抗女子駅伝に初出場を果たす。まだこの頃は力も全国で活躍できるレベルの選手ではなかった。しかし、憧れの大会に選手として選ばれたという嬉しさが実力以上の力を引き出したのか、5区でまさかの区間賞をとってしまったのである。
全国高校駅伝の惨敗
実はこの大会の3週間前に行われた全国高校駅伝では、大会当日に高熱を出し、1区で区間17位の不本意な結果に終わっていたのである。顧問の先生からは「何で今なんだ・・・」と言われたのを覚えている。
長距離選手のピーキングの難しさ
とにかくアスリートにとって、とりわけ女子の長距離選手にとっては大会に好調をもってくるピーキングというのは難しい。調子の良い時は爆発的なレースを、コンディションが悪い時でも最低限のレースをして、しっかり結果を出せる選手にならなくていけないと学び、大学以降の競技生活に大きな影響を与えた出来事となった。
心身共に成長させてくれた駅伝
震災で誓った思い
私はとにかく都道府県対抗女子駅伝への思いが強い選手だった。大学の時はあまり活躍出来なかったが、社会人になってからは若い学生の選手を引っ張っていかないといけないという自覚が出てきたのもあり、できる限り兵庫県チームに貢献したいと思っていた。
レース当日の朝は、あの震災の日のことを忘れないよう、兵庫県チームはみんなで黙祷をする。兵庫県民の代表としてしっかり戦おうと言う気持ちになると同時に、高校生の時から可愛がってもらった地元の先生たちと一緒に同じ時間を過ごせるこの時を大事にしようと思っていた。
エースと呼ばれるプライド
2003年と2004年の2連覇した時は1区を担当していた。大会前後に重要なレースがあり、調整などで難しい時期だった時も、1区か最長区間のアンカーを引き受けてきた。そこを走らなくてはいけない責任感があった。
震災後10年目の2005年には初めてアンカーを走らせてもらった。3連覇ならず2位という結果であったが、エース区間であるアンカーで区間賞をとることができた。高校1年生の時に夢見た舞台に10年経って、自分がチームの中心選手としていることは非常に感慨深かった。
かれこれ都道府県対抗女子駅伝は、兵庫県チームで8回、京都府チームで1回、東京都チームで1回の合計10回走った。マラソンを中心に取り組み出してからは、ほとんど出れなくなってしまった。最初はただただ憧れであったが、選手として心身共に成長させてくれた大会だった思う。