2019月07年19日
東京国際女子マラソンに出るまで
名古屋国際女子マラソンを終えて
北京オリンピックの女子マラソン代表選考会だった2008年3月の名古屋国際女子マラソンで3位に終わり、私の北京オリンピックへの夢は絶たれた。
ずっと長引く怪我で一度走ることを諦めていたので無事に走り切れた喜びの方が大きく気持ちはすっきりしていた。
レース後は重圧から解き放たれ、後輩と温泉旅行に出かけたり、好きなことをしたりして、リフレッシュをした。レース後に一度心身共にリセットすべくリフレッシュすることは本当に大事である。
次なる目標は東京国際女子マラソン
1週間程休養し、次の目標を2009年8月に行われるベルリン世界陸上着選手権大会で女子マラソン日本代表になることに設定した。
世界選手権の代表になるには選考対象となっているレースで結果を残す必要がある。私は11月に行われる東京国際女子マラソンにすることを決めた。狙うは当然優勝だった。
2007年1月の大阪国際女子マラソンで初マラソンで3位、翌年の名古屋国際女子マラソンでも3位と完走した大会は全て3位以内には入っているが、優勝は2007年の北海道マラソンだけだった。
私はこの東京国際女子マラソンはどうしても勝ちたかった。監督からは「本番で勝ちたいなら春先のレースから勝つことを覚えなさい」と言われた。
勝ち癖をつける
マラソン練習としてのトラックレース
マラソンで更に上を目指すために積極的にトラックレースに出場しながらスピードを磨くことにした。トラックレースに積極的に出るのは久しぶりだったが、マラソン練習で身体がしっかり出来ている分、「これは走れるぞ」という良い感覚をすぐにつかむことができた。
5〜8月は好調をキープしながら、海外・国内のトラックレースやロードレース、ハーフマラソンを中心に積極的に出場していった。
9月に入り、ここからは完全マラソンモードに入る。9月下旬には最終の強化合宿を行うためにアメリカニューメキシコ州のアルバカーキへ移動した。1年の中でも一番気候が良く練習がし易い時期だった。
負けられないハーフマラソン
合宿中に東京国際女子マラソンに向けた実戦練習として、アメリカ西海岸のサンノゼであったハーフマラソンに出場した。
目標は優勝。
レースはハイペースとはいかず、1km3’15”〜20”でレースは進行していった自分以外はほとんどがアフリカ勢など海外選手であったが、構えることはなく自分の走りをすることにのみ集中した。
レース中盤からエチオピアの選手との一騎打ちになる。途中15kmくらいのところで1度離される。「ここで負けたら東京でも勝てない」と自分に言い聞かせて、ペースをあげて追いつく。
二人並んだ状態で「どっちが引っ張るのか?」という心理戦状態になる。18km地点を通過して、私は一気に勝負に出る。
少し離れのが足音でわかった。後ろを振り返ることなく、一気にペースをあげて逃げ切り体制に入る。
独走体制に入り、対向車線を逆方向に走っていく一般ランナーの声援を受ける。そのまま気持よくゴールまで駆け抜ける。
優勝。1時間10分5秒。目標の優勝を達成した。
好調の合宿後半
レース後、再びアルバカーキに戻り、合宿を再開した。
調子が良い時こそ油断はできない。体調を崩すことはあってはならない。気を引き締めながら好調が続いていた。
合宿中に調子が上がり過ぎないよう、後半になっても練習量は落とさず、いつもより少し多い練習量で無事に怪我も体調を崩すこともなく合宿を終え、日本へ帰国の日になった。
朝、アルバカーキからサンフランシスコに飛び、サンフランシスコから成田に飛ぶスケジュールであったが、サンフランシスコで成田行きの飛行機が飛ばないというトラブルが起きてサンフランシスコに1泊することになった。
帰国が1日遅れたが、練習のスケジュールの変更はしなかった。順調にいつもどおりの調整を続け、大会2日前に東京・赤坂のホテルに移動した。
東京国際女子マラソンのライバル
東京国際女子マラソンは11月にあるため駅伝シーズンと重なっているので、チームとして駅伝の優先順位が高い実業団の選手は東京を避け、1月の大阪国際女子マラソンか3月の名古屋国際女子マラソンに出る選手が多い。
が、今回は渋井さん(三井住友海上)や尾崎さん(第一生命)がエントリーしており選手のレベルは高かった。
2日前に記者会見では、みんな優勝を狙ってきているのが分かった。
簡単に勝てるわけないことは分かっていたが、勝つこと以外は一切想定していなかった。それよりも雨予報の大会当日の天気の方が気になった。
大会当日の朝も、まだ雨が残っていた。昼からのレースだったので、少しでも小雨になってくれることを祈った。スタート地点の国立競技場に移動し、雨はなんとか上がりそうな感じになってきた。
おそらくレースはハイペースになるだろうと想定していたので、いつも以上に最初から動く準備をしていた。監督からは「途中離されたとしても30km以降で逆転できる位置で走るように」との指示だった。
加納由理の東京国際女子マラソン
ハイペースのスタート
12時15分号砲。レースは予想通り、渋井さんが先頭で1km3分20秒を切るハイペースで始まった。
最初の5kmまで行けばペースが落ち着くと思い、速いと思いつつも先頭についていった。しかし、5kmを過ぎてもペースが落ち着いて来なかったので、自分の走りに徹する形に切り替える。先頭からは少し離れた位置で先頭を見ながらも1km3分20〜25秒のハイペースで走っていた。
ハイペースゆえ集団がバラけるのも早く、10kmから15kmは尾崎さんと並走した。15km以降は私が前に出て1人でレースを進める形になった。
ハイペースの中間点
中間点通過タイムは1時間10分40秒。
「速い」と感じたが、気持ちに余裕がないと30km以降勝負出来ないと自分に言い聞かせ、とにかく1人でも落ちいて走ることを心がけた。
しかし、正直一人で進めるレースはきつかった。25km以降は精神的にきつくなってきて、何回か頭がボーッとしかけた。
25km以降は1km3分25〜30秒を何とかキープして、最後の逆転に望みをかけた。
先頭の背中が見えてくる
33km過ぎてから急に前の渋井さんの姿が大きくなってきた。
自分もちょっときつくて、一気にペースアップするほどの余裕がなかったのが、少しづつ差を縮めていった。
渋井さんの姿を追いかけていたが、私が渋井さんに追いつく前に、後ろから来た尾崎さんに38kmで追いつかれ抜かれてしまった。尾崎さんが後ろから来ていることは抜かれる直前まで気づかなかった。
尾崎さんの勢いには全く対応できず、あっさり抜かれてしまった。が、抜かれたからといって、ここでレースを諦める訳にはいかない。
39kmで渋井さんを抜き2位には上がったが、尾崎さんからは離される一方だった。それでも自己新が出るペースできていたので、最後まで前を追いかけ走り切った。
2008年東京国際女子マラソンで2位
結果は2位。2時間24分27秒の自己新。
レース終了後は、勝てなかったことに対してしばらく放心状態だった。時間が経って落ち着いてからレースを振り返り、前半からリスクを背負ってでもハイペースな流れについていったことを考えると納得の結果ではないが、よく走り切ったと評価できるレースだと思った。
レースの結果は2位だったので、すぐに世界選手権の内定はもらえなかったが、代表の望みは残された。翌年2009年3月に国内選考会が全て終了した後、私は世界選手権ベルリン大会の代表に選ばれることになった。