2019月07年19日
加納由理にとってのハーフマラソン
2003年宮崎女子ハーフマラソンでの自己記録
2001年4月に資生堂に入社し、毎年何かしらの種目で自己新記録を更新していたが、なかなか自己記録を更新できなかったのがハーフマラソンであった。
実業団2年目の2003年に宮崎女子ハーフマラソンで5位に入賞した際の1時間10分28秒の記録を更新するのに5年もかかったのである。
フルマラソンとハーフマラソンの違い
フルマラソンが42.195kmなので、ハーフマラソンはその半分の21.0975km。マラソンランナーからするとスピードが求められる難しさがあり、トラックランナー(5,000mや10,000m)からすると後半のスタミナが求められる難しさがある。
それ故に、トラックランナーにとっても、マラソンランナーにとっても、トレーニングや調整として利用されるのがハーフマラソンだったりする。
レースの連戦
東京選手権の10,000m
2008年3月の名古屋ウィメンズマラソン(北京オリンピック最終選考会)で3位に敗れた私は次のターゲットを秋の東京国際女子マラソンの優勝に絞った。
レースもトレーニングもしばらく長い距離を中心に走っていたため、私の走りの持ち味でもあるスピードを再び強化するために、春は積極的にトラックレースに出場することにしていた。
日本選手権に出場するためには参加標準記録を突破している必要があるのだが、しばらくトラックレースから遠ざかっていたため6月の10,000mの出場権がなかった。
そこでまず4月の東京選手権で10,000mに出場し権利をとりにいくことにした。3月にマラソンを走ってからの1ヶ月の準備でまだスピードのキレはなかったが何とか32分41秒で優勝することができ、日本選手権の出場権利を得た。
Bolder Boulder 10K(ボルダーボルダー)
この年は北海道で洞爺湖サミットが行われた年だったため、例年は7月に開催されていた札幌国際ハーフマラソンは6月に開催されることになっていた。
札幌国際ハーフマラソンに合わせ、5月に入りアメリカニューメキシコ州アルバカーキに渡った。今回の合宿ではスピード強化の一貫として、合宿途中にコロラド州ボルダーに渡り、「Bolder Boulder(ボルダーボルダー)」というアメリカでは人気の10kmのレースに日本チームで出場することにしていた。
標高1,500mかつ10kmという距離はアフリカ勢がとにかく強い。とにかく最初から出遅れるとあっという間に置いていかれて、勝負に参加出来ない。なので、スタート直後から猛ダッシュである。何とかアフリカ勢との勝負に食い込んで、Bolder Boulder(ボルダーボルダー)では当時日本人最高位の4位に入ることが出来た。
加納由理の札幌国際ハーフマラソン
帰国、札幌入り
約1ヶ月のアルバカーキでの合宿を順調に終え、日本に帰国し東京で札幌国際ハーフマラソンに向け最後の調整に入った。既に6月の日本は暑かったが、どこにも不安要素が見当たらないくらいいい調整ができていた。
レース2日前に札幌へ入った。東京に比べるとかなり涼しかった。レース前日の朝はゆっくり起きて、北海道大学周辺をジョギングした。私はレース前によく一人で遠征先の街をフラフラ歩いたりする。気分転換しながら自分と向き合える時間が好きだった。
レースは昼スタートだったので、早起きする必要も無い。調子が良かったので、悪くても自己記録は出せるだろうという自信があった。そのためかいつもに増して気持ちはかなり落ち着いていた。
札幌国際ハーフマラソンスタート
13時に円山陸上競技場をスタートし、レースが始まった。最初の2kmは急な下り坂。下りが苦手な私はトップに置いていかれないよう必死にアクセルを踏んだ。
レースはハイペースで始まった。今は少々きつくても無理して着くしかない。5kmの通過タイムが15分50秒。このまま行ったら日本記録ペース。まずこのまま行くことはない。
必ずペースが落ち着くはずなので、心の中では「今はきついけど、今回は絶対走れるから大丈夫。」と自分に言い聞かせていた。
ハイペースの札幌国際ハーフマラソン
5km過ぎて、平坦になったところから少しづつペースが落ち着き、走りにも余裕が出てきた。10km通過は32分12秒。今までにない速いペースで推移しているが、余裕も出てきたのでこのまま流れに乗っていくしかない。
10kmが過ぎトップ争いは、大崎さん(三井住友海上)と私の2人になっていた。少しづつラップは落ちてきていたが、自己記録は大幅に更新するペースであった。「ここまできたら優勝するしかない」と誓いつつも、大崎さんは伸び盛りでハーフマラソンの自己ベストタイムは私より1分くらい良い記録を持っていた。
勢いのある選手だし、中途半端なパンチの弱いペースアップでは簡単に逃がしてはくれない。
札幌国際ハーフマラソン勝負のラスト勝負
平地では決着がつかず、ゴールの円山競技場へ戻っていく上り坂が勝負になると思った。私は上り坂には自信があった。大崎さんに先に1度スパートを仕掛けられたが、ここを耐えれば逆にチャンスがくるとに違いないと思った。
大きく離されることなく、耐えきった後は一気に差を詰めて、その勢いのまま逆に一気に自分がスパートした。少し差が開いたので、このまま後ろを振り返ること無く、アクセル全開で上り坂を駆け上がった。
札幌国際ハーフマラソン優勝と自己記録
トップで陸上競技場へ戻ってきたが、どのくらいのタイムで走っているのか全く分かっていなかった。とにかく記録よりも、上位に入ることさえも難しいと思っていたハイレベルなレースで優勝できる位置を走っている自分が信じられなかったのである。
最後の直線でゴール横の大きな計測用の電光時計を見て、1時間8分台が出るかもしれないと気付いた。ゴールしてみれば、今までの1時間10分28秒の自己記録を1分31秒更新する1時間8分57秒だった。
この札幌国際ハーフマラソンで自己記録を大きく更新し、また勝負に勝つという結果を出すことができ、自分の中で一つ壁を破ることができた。北の大地で秋のマラソンへ向けて確かな手応えと自信を掴む経験となった。