2022月02年03日
8月、ロンドンで開催されました、世界陸上選手権大会。
男子50km競歩では、荒井広宙選手がリオオリンピックの銅メダルに続き、今回の世界選手権では銀メダルを獲得、小林快選手が世界大会初挑戦で銅メダル、そして、男子4×100mリレーもリオオリンピックに続く銅メダルと、大会最後の2日間で3つのメダルを獲得しました。
競歩とリレーのメダル獲得で明るい話題がある一方、期待の男女マラソンは10大会振りの入賞なしに終わり、3年後に控えた2020年東京オリンピックに対し、指導者も選手ももっと危機感を持つことと言ったような内容の記事を目にしました。
私も、ロンドン世界選手権の結果をみて、自身の経験を元に「世界で戦うための経験と心構え|世界陸上ロンドンにおもう」を書かせていただきました。
私も競技を3年前に引退し、世界で戦ってきた22年間の陸上人生や、アスリートのセカンドキャリアについても、自分のブログで書かせていただき、2020年東京オリンピックはじめ、それ以降も陸上競技の普及の力になりたいと思い、活動しています。
今回のアスリート対談は、資生堂時代の大先輩、弘山晴美さんをお招きし、お話をお伺いました。
その中には、未来のアスリートを育てるヒントがたくさんありました。
弘山さんと対談をさせていただいたのは、7月中旬。
今回の対談は、8月4日から10日にロンドンで開催された、世界陸上選手権大会の前でしたが、弘山さんとお話させていただく中で、今の現役選手が世界と戦い自分の狙った大会で結果を残すためにやっておくべきこと、世界と戦うメンタルの鍛え方がみえてきました。
弘山さんから出てくる強い選手になるためのキーワード、2020年東京オリンピックを目指す選手、選手を育てる指導者の方にも参考になることがあるかと思います。
競技だけでなく、ビジネスにも通じる内容もでてきますので、色々と参考にしていただければ幸いです。
弘山晴美さんのプロフィール
長期にわたり、日本女子長距離界のエースとして活躍。現役時代は「トラックの女王」の異名を持っていた、弘山晴美さん。
1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピック、2004年アテネオリンピック3大会連続出場。世界選手権も4回出場。
資生堂ランニングクラブ時代、資生堂ランニングクラブ選手兼コーチの弘山勉さんと結婚。
その頃は、めずらしいミセスランナーとして、長い間にわたり、日本女子陸上界のエースとして活躍。40歳まで現役生活を続けられ、37歳で日本3大マラソンと言われる、名古屋国際女子マラソンで優勝。
その時の2時間23分26秒のゴールタイムは、35歳以上の選手としては、現在も日本最高記録。中距離の800mから長距離、そしてマラソンまで距離を伸ばし、世界と戦ってきたランナー。
弘山さんと私(加納)との関係性
Q:加納が見た弘山さん。
加納:私、大学卒業後の進路を資生堂に決めたのは、晴美さんと同じチームで走りたかったからなんです。中・高時代から、トラック競技1500m、5000m、10000mで活躍する姿をみて、異常に憧れたんですよね。
なんというか、実業団色のようなのが見えなくて、私の中では、型にはまらない、時代の最先端をいくランナーのような映り方をしていたんですよね。
でも、実際に近くで関わってみると、競技をやっているときと普段のギャップがすごくて、競技以外のところでは、後輩から色々とダメ出しされて突っ込まれていることもあって、そのギャップに親近感が湧きました。
Q:弘山さんからみた加納由理は?
弘山:6年間同じチームで走っていたけど、加納が入ってきて半年くらいは、レースや練習で一緒になってもほとんど話さなかったよね。
練習で会っても、加納は挨拶もしない感じだった。
加納:挨拶していたつもりなんですけど、同じようなこと他の人にも言われたことあるので、そう見えていたのは間違いないと思います。
無礼な後輩で申し訳ありませんでした。
弘山:12月に岐阜で開催される「全日本実業団女子駅伝」で、5区を私が走って、6区を加納が走った時、襷を繋いだことをきっかけに話をするようになったね。
最初は加納が可愛がっていた、パンダのぬいぐるみを隠したりして、いじったりすることが多かったけど、仲良くなっていくに連れて、競技の話もしていくようになったよね。
加納:そうですね。色々な思い出話、話し出すと止まらないですね。
さて、今回の晴美さんとの対談、「世界と戦うメンタルの鍛え方」と題し、晴美さんがランナーとして走られてきた経験を元に、世界で戦うために必要なことを項目の5つに絞らせていただき、お話させていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
12月の全日本実業団女子駅伝の打ち上げにて、前列左から1番目が晴美さん、右から2番目が加納
強くなるために必要だったこと
加納: 強くなるためには、練習も大切です。
ただ、晴美さんをみてきて、練習以外の時間の使い方が別の人と違っていたように見えたのですがどんなことを意識していたのですか?
弘山:みんな競技場で走ることが練習だと思っているけど、家に帰った後に、練習の疲労をどう抜くのか、次の日の練習、試合向けてどういう準備をするのかを含めて、考えるようにしていたね。
試合までがそれの繰り返しだから、練習だけでは点にしかならなくて、それに生活を含めて線にしていく意識が大切なの。
だから、食べるもの、疲労の抜き方、生活の仕方など、走る以外でも結果を出すために大切なことはたくさんあるからね。
競技以外の時間の使い方を、私はかなり意識してきたと思う。
アメリカ・コロラド州ボルダー合宿中のチームメンバーでの食事、晴美さんが隠れてしまってる写真で申し訳ありません。
加納:そうですよね。晴美さんって走っている意外の時間も、すごく競技を意識されていましたよね。
時間の使い方のメリハリがあると思ってみていました。私も、すごく勉強させてもらいました。印象的だったのは、飲み会があっても、次の日のことを考えて、22時で切り上げていましたよね。
練習や生活において、年齢によって変化してきたところはありましたか?
弘山:そうね、若い頃は無理して夜遅くまで起きていて平気だったのも、年齢がいくたびに、次の日に影響が出てきたりしてきたりしてきたから、そのあたりは気をつけるようになったね。
競技を長く続ける為には、生活自体を整えていかないと練習もできないし、怪我も増えてくるから、そこをしっかりとやらないと激しい練習をしても、やった分の練習が身についていかないよね。
練習は理想の50%くらいしか出来なくても、レースに向けての練習以外の時間の使い方、例えば、休む時間、身体をマッサージしたりすることで、コンディションが80%になることもあるからね。
最後の調整の方法、疲労を取る方法とか、こういうメンタリティでやっていけば、
すべてが線になって記録が出るんだと思うな。
シーズン中は、ものすごく気を付けていたよ。
オフになると、私だって気持ちがだらっとなるし、夜遅くまで起きていたり、暴飲暴食することもあるけど、シーズン中はそれはないよね。
加納:まさにそうですね。
近くで見ていても、晴美さんの生活すべてが競技に見えましたよ。
晴美さんって、40歳まで現役で走られていたのに、怪我も少なかったですよね?
怪我をしないために、気を付けていたことはありましたか?
弘山:普段履く靴は、故障しないように自分の脚に合わせた中敷きを入れて、治療でケア、そして、歯の噛み合わせも矯正したな。
自分なりに、競技にプラスになることは全て取り入れるようにしていたよ。
怪我が少なかったのは、これ以上やったら危ないと思った時は、練習をストップして、痛いのは無理してやらなかったからだね。
加納:その練習ストップがなかなか出来ないんですよ。
私も経験ありますけど、大体、みんな周りの目が気になって、無理してやっちゃいますよね。
どんな感じでコントロールしていたのですか?
弘山:1日で痛みが回復するなら、それでいいじゃん。
無理して走って悪化したら、1ヶ月練習を休む人もいるでしょ。
私は、ウォーミングアップで、痛みがなくなるなら練習やるけど、アップして痛みが増すようなら、大事になる前に自分でやめるようにしていたな。
加納:そうですよね。
今振り返ると、1、2日練習を休んだとしても、力が落ちることはないと分かってるんですけど、現役時代はここまでのトレーニングの積み重ねが途切れてしまうのが嫌で、無理して走って、怪我してしまったこともありました。
練習に加えて、強くなるために大切なことって沢山ありますね。
本番に強くなるメンタル
加納:6年間、晴美さんと同じチームにいて、一緒にレースをしたのは数え切れない位あるんですけど、私が晴美さんに勝ったレースって、5回あったかな?と言うくらいなんですよね。
練習では、私の方が走れる時も多かったんですけど、晴美さんはレースになるとめちゃくちゃ強い。
練習がいまいちでも、レースになったら違うといった自信はあったんですか?
弘山:確かに加納は練習が強くて、高地トレーニングではこてんぱんにやられたこともあったな。
でも、競技者としてのキャリアが長いぶん、自分の調子が上がっていく調整法とか、自分がレースで力を発揮するパターンを分かっていたからね。
例えば、高地トレーニングで疲労が溜まっていても、それを調整すれば、走れるというのがあったからね。
私は肩こりがひどくて、高地トレーニングするとそれを帰って来て、鍼やマッサージでほぐすと疲労が抜けて、バーっと走れるようになったんだよね。
逆にマラソンでの高地トレーニングは、合わなかったんだよね。
2006年9月の全日本実業団10000m
加納:2000年のシドニー五輪の選考会(大阪国際女子マラソン)の時はどこで練習されたんですか?
私、その選考会のときまだ立命館大の学生で、大会の補助員していたんです。
御堂筋のハーフを通過したあたりで晴美さんをみて、「晴美さんに勝ってほしいって思いながらみていました。」
結果は、リディア・シモン(ルーマニア)にトラックで逆転されて2位でしたが、大阪での晴美さんのレースは本人じゃない私でも、しっかり覚えてますよ。
弘山:大阪の前は奄美で練習していたね。
2000年の大阪は、最初は体が重くてどうしようとおもったけど、15kmの大阪城公園横の坂をのぼったあたりからリズムがつかめて、体が楽になったんだよね。
30kmくらいでスパートするまで楽だったね。
レースは負けたけど、私にとってはマラソンのベストレースだったかな。
2006年の名古屋国際女子マラソンで優勝した時も、あの時は、前を走っていたと渋井陽子さん(三井住友海上)と途中1分離れていたんだよね。
30kmの地点でまだ、前を走る渋井さんとは50秒差があったけど、マラソンはゴールするまでは何が起きるかわからないから、諦めなかったんだよね。
残り1km切って、逆転できた。
でも、いけると思ったのは41km地点だからギリギリだよね。
私は、後ろから追われるよりも、追いかける方が得意かな。
加納:毎回違ったレース展開で、自身のコンディションやレースでの動きも変わってくる中、周りに惑わされず、自分の力を発揮するのはやはり経験の多さが生きてきますよね。
弘山:そうだね。毎回、その時の状況で力を発揮するのは簡単なようで、自分のこれまでやってきた感覚みたいなものもあるからね。
その感覚を掴むのって、色んな経験を積むことで分かってくることなんだよね。
加納:つまり、ここ一番のレースで勝負を決めるというのも、経験が大切ってことですね。
→次回、「弘山晴美がトップランナーとして、28年もの間活躍出来た理由とは」に続きます。
お楽しみに。