2019月09年15日
こんにちは、加納由理です。
前回はウエイトコントロール〜中学編〜として、当時の思いを綴っていきました。お読みいただけたでしょうか?
当時を振り返ると懐かしくなると同時に、よく頑張っていたなと思うことも本当にたくさんあります。
このテーマでブログを書こうと思ったきっかけは、前回も書いたように、自分の経験を発信することで、もしかしたら誰かの力になれるのではないかと思ったからです。
自分の競技生活の中でウエイトコントロールは本当に大変だったなと思いますが、中学生、高校生、大学生、社会人と抱える課題は違いました。
そのような課題のなかで自分自身と向き合い、工夫してきたことはとても多かったです。
そして、今回は高校編。私は須磨女子高校に進学しました。
現在は共学化して名前も変わりましたが、今年も全国高校駅伝に出場する全国屈指の強豪校です。
私が走った第8回大会は7位に入賞し、さらにその7年後の2003年には全国制覇。
当然毎日厳しい練習が続きましたが、そんな中でウエイトコントロールとどう向き合い、どんなことに気をつけて過ごしたかなどを思い出しながら書きました。
お読みいただけると幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
人生初の貧血
長距離選手が最も悩まされやすい内科的疾患が「貧血」。
過度な運動や発汗によって赤血球の素になる鉄を消耗し、次第に赤血球の産生が追いつかなくなってしまう鉄欠乏性貧血が最もポピュラーです。
赤血球が減ることによって酸素を全身に運ぶ能力が低下してしまいますが、それは持久力の低下も意味するため、長距離選手にとっては致命的な疾患と言えます。
そんな貧血に私が見舞われたのは高校1年生の冬でした。
それまで自分には関係ないと気にもかけていなかった貧血でしたが、ある時ふと「疲れが抜けないなぁ」と感じるようになり、それがなんとなく普通と違うような違和感があり、自分では薄々貧血のことを疑っていました。
ただ、確信はなく、とにかく体がだるい、眠くて走っていてもすぐに集団から離れてしまうという状態のまま練習を続けていました。
見かねた顧問の先生が病院での検査を勧めてくれて、貧血が発覚。
貧血の診断基準となる指標はいくつかありますが、その当時特にヘモグロビンの値が下がっていました。
通常このヘモグロビンは13.5〜15.0g/dlあるのですが、このときの数値は10.0g/dlを下回る状況でした。
あぁ、やってしまったなという思いと、やっぱりなという思いが両方ありました。実は私の中に心当たりがあったんですよね。
その心当たりというのが阪神大震災、観測史上初めて震度7を記録した大地震です。
私が通っていた須磨女子高校は神戸市須磨区に位置していたため、学校はとても大きな被害を受けました。
1ヶ月間学校に行くこともできず、トレーニングは1人でやるという状況。
地震のストレスだけではなく、学校に通えないストレス、先が見通せないストレスなど、見えないものも含めれば当時はかなり特殊なストレス環境下にさらされていたと思います。
そん中で自分ができる範囲でトレーニングを続けていましたが、これまで陸上競技漬けで毎日過ごしてきた身としては、ずっと当たり前だった競技環境を一変し、いろいろなものが崩れていきました。
当然体重も増加。練習と食事のバランスが崩れてしまっていました。
増えた分の体重を戻すために取った行動は、食事を減らすこと。
ちょっとなら大丈夫だろうという甘い考えが、結果的に貧血を招いてしまったんです。
この貧血から回復するまでには3ヶ月を要しました。
無茶な食事制限は貧血を招く。
その当時、身をもって感じた教訓でした。
人生で一番ウエイトコントロールに苦しんだ高校時代
高2の県駅伝
食事制限が貧血を招くというトラブルは身をもって経験しましたが、高校時代は体重のことが頭から離れることはありませんでした。
それくらいウエイトコントロールに苦しんだ時期です。少しでも気が緩めばすぐに体重が増えてしまう。
もう水を飲んでも増えるんじゃないかと思ったくらいです(笑)成長期だったのか、体が欲してたのかわかりません。
当時ウエイトコントロールに苦しみながらも、以下の三つをとにかく心がけていました。
(1)甘いものは食べない
高校時代はとにかくお腹が空きました。
空いて空いてしょうがなかったです。
幸いにも貧血は高校1年生に経験して以降、再びその症状に悩まされることはありませんでしたが、体は常に栄養を欲していたのかもしれません。
もし、空腹に耐えかねてお菓子に手を伸ばしてしまえば、食事がちゃんと摂れなくなってしまいます。
食べた罪悪感によってカロリーを消費しなければという発想になっていれば無計画に走る量だけを増やしていたかもしれません。
はたまた、汗をかくために着込んで走っていたかも。
甘いものを食べないという鉄の掟は走ること以上に苦しかったかもしれません(笑)
こういった食欲をコントロールできたのは母が作ってくれた食事のおかげでした。
練習後にお腹が空いていても、母の料理を楽しみにして自宅に帰っていたからこそ我慢できました。
ウエイトコントロールに悩んでいても、空腹を満たしてくれるだけの量をきちんと出してくらた母。
栄養バランスもよく考えてくれていたので、本当にありがたかったです。
油断するとすぐに1〜2kgは増減していた私の体は母の手料理なしには維持することができませんでした。
食事をきちんと摂るって本当に大事ですよ。
(2)生活のリズムを整える
当時、私が通っていた須磨女子高校までは片道1時間半かかりました。
授業に出て、部活でクタクタになるまで練習し、家には寝に帰るだけのような生活。
自分で選んだ道なので、不満はなくやり切るしかないと思っていましたが、大変だったことは間違いありません。
この生活に慣れるまでには一年かかったのですが、不思議なことに生活のリズムが整ってくるとウエイトコントロールもうまくいくようになりました。
そして、競技成績も比例して上がる好循環。
当たり前のことではありますが、競技を支えるものはやはり普段の生活のリズムだと私は実感を込めて言いたいと思っています。
今の私は朝に走る生活をしています。
1日のリズムは朝走ることで作られるので、現役を引退してからはこの生活がすっかり私のペースになりました。
走れない日もありますが、原則この生活を続けているおかげで、今はいろんなことが安定しています。
特別なこと以上に基本的なことは本当に大事ですね。
(3)気持ちをコントロールする
須磨女子高校は部内の競争も非常に激しく、レースに出るためには”0次予選”として仲間と戦って勝たなければ試合に出ることはできませんでした。
高校1、2年生の頃は部内の争いに負けてレースに出ることすら叶いませんでしたが、3年生の最後のインターハイ予選は選手として出場しました。
陸上をやっている高校生にとっては、誰もが目標とするインターハイ。
近畿予選まで勝ち進みましたが、9位という結果におわり、インターハイに出ることができませんでした。
同じレースに出ていた同じチームの仲間二人は上位入賞しインターハイ行きを決めていたので、出られなかったのは私だけ。
これは非常に落ち込みました。ただ、このころの自分はきちんと気持ちをコントロールできるようになっていて、すぐに切り替え駅伝に向けてトレーニングに励みました。
インターハイに出るという目標は叶いませんでしたが、近畿予選の翌週に初めて出た5000mのレースで16分39秒のタイムがでましたし、駅伝ではエース区間の1区を任せてもらい7位入賞。この頃はウエイトコントロールもだいぶ安定していました。
気持ちの浮き沈みとウエイトコントロールはかなり相関関係があると思っていて、ちょっとして不平不満を食にぶつけてしまうと、それまで我慢してコントロールしてきた体重が一気に崩れてしまいかねません。
心の浮き沈みをコントロールするのは難しいことではあるのですが、この部分できちんとコントロールできないと失敗してしまうなと私は思っています。
まとめ
今回ウエイトコントロールの記事を書くにあたって色々書きましたが、もちろんその当時から全てを理解して行動していたわけではありません。
10代は成長期なので、少しのことでも身体や心が変化する時期。
だからこそ、目先のことにとらわれすぎず、自分自身がどこに向かっていて、何故ウエイトコントロールが必要なのかを、自分自身で理解しておくことがとても重要ですね。
この時期の取り組みは将来の競技人生に大きく影響してきますから。
本文でも触れたように、陸上競技はただ走っていれば良いというものではありません。
むしろ走っている以外の時間や練習以外の身の回りのことの方が大事だったりします。
ここがしっかりできないとうまくいかないと言ってもいいですね。
自分の体のことはきちんと自分で向き合いましょう。
そして高校生として競技ができる時間は3年間しかありません。
その時代をぜひ楽しんでくださいね。
ここで書かせてもらったことは、大人になってから気づいたこともあります。
「これから強くなるぞ!」という選手は何かしらの参考になれば嬉しいですね。
どうぞ、よろしくお願いいたします。