2019月09年15日
こんにちは、加納由理です。
私の競技生活の振り返りとして書かせていただいた「20年間向き合い続けたウエイトコントロール」記事も最後の社会人編となりました。
20年間向き合い続けたウエイトコントロール→ 中学時代
20年間向き合い続けたウエイトコントロール→ 高校時代
20年間向き合い続けたウエイトコントロール→大学時代
ご覧いただけたでしょうか?
人それぞれ感じるところは様々だと思っていますし、色々な意見もいただきました。
ただ、自分や自分の周りの人の経験と重ねたりイメージしながら読んでいただけると、私自身も書いた意味が出てくるかなと思っています。
「アスリートってこんなに大変なのか?」
「なんでここまでして・・」
と、思われた方もいるかもしれませんが、素直な感想を私も聞きたいと思っていますし、活発な意見交換が女性アスリートの抱える課題の解決にもつながるのではないかなと考えています。
色々な意図があってこのテーマでブログを書き始めましたが、多くの方に興味と関心を持ってもらえたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
環境の変化で増える体重
このブログで再三書いてきたように、私が現役時代にずっと悩まされたのは「ウエイトコントロール」でした。
体重が増えやすいという自覚はかなりはっきりと持っていたので、色々な工夫や摂生もしてきましたが、環境の変化が起こった時はどうしても体重に出てしまうようで、進学や就職のタイミングの時には苦労しました。
きっと、生活のリズムが変わったことに対して、身体がうまく環境に順応しなかったんでしょうね。
中学から高校、高校から大学、いずれのタイミングでも何かしらの変化はありましたが、大学から社会人になったタイミングでの変化が一番大きかったです。
私が大学を卒業して入社したのは資生堂。
オリンピックに出場する選手も抱える強豪チームでした。
大学生の頃にどれだけ実績を残せたとしても、新しい環境では”一年生”。
緊張感もあったと思いますが、入社当時の私の体重は自分の理想体重よりもなぜか2kgほど重い状態でした。
それだけが原因ではなかったと思いますが、満足いくような結果が残せず社会人のスタートは苦しい思いをしました。
幸い怪我などなく練習は継続できていたものの、自己ベストには程遠い状況。
どれくらい程遠いかというと、10000mであればベストよりも1分ほど遅く、距離にするとトラック1周弱くらい。
さすがにこのタイムを見た時には焦りましたし、悩みました。
ただ、体重が増えていたということもあったので、これを落とせば記録は戻ると思っていて、無理な減量ではなく地道な練習をコツコツ継続。
まぁ、しんどい時期でしたね。自分も悩みましたが、チームの監督やコーチもきっと頭を悩ませていたでしょう。
大学時代の記録から考えれば駅伝でも大きな戦力として期待してくれていたでしょうし、それなのに思ったほど走れないとなれば、想定外もいいところですから(苦笑)
結局そういった原因不明の過体重状態は1年ほど続き、理想とはかけ離れた状況で実業団1年目をすごしたのですが、そこで怪我をしたり、気持ちが折れたりしなかったのが良かったのだと思います。
腐らずにコツコツ練習を続けた結果、2年目の夏頃からスルスルと体重が減ってきました。
そして、秋には10000mで自己ベスト更新。
特に生活の何かを変えたわけではありませんが、春夏秋冬を通して実業団の生活を経験し練習にも慣れて体が順応してくれたのだと思います。貴重な経験でしたね。
女性は体重の変化が大きくて当たり前です。
自分自身でコントロールできない生理現象もたくさんあるので、それに自分も周りも振り回されるのは得策ではありません。
世の中にはたくさん我慢して摂生している選手がたくさんいます。
見えない努力は挙げたらきりがありませんが、それでも体重が増えるときは増えちゃいます。
本人に全く責任のない変化に対して、あれこれ口出しされた時に受けるストレスは小さくないですし、悩み多き仲間をたくさん見てきました。
でも、長い目で見えば今は増えても大丈夫!やるべきことをやっていればちゃんと落ちる!!
と自分を信じ、周りもそれを信じて待てるかどうかがとても大事で、それを乗り越えられた選手は本当に強くなれるだろうなと思っています。
もちろん努力や我慢が足りない選手もいますが、頑張っている選手が苦しんだり、将来性のある子が潰れないように、女性のウエイトコントロールの難しさはもう少し認識が高まるべきではないでしょうか。
私の場合は環境にとても恵まれました。
中学、高校、大学と各年代で色々な経験ができて、ちゃんと信じて待ってくれる指導者にも出会えたことが大きかったです。
学生時代と違って特に社会人はやめる時期が決まっていません。
学生の時のように3年あるいは4年で卒業というわけではないので、自分が納得するだけ競技が続けられます。
もちろん市民ランナーも生涯現役を続けられますよね。焦らずに自分を知り、自分と向き合う時間を作ることは決して回り道じゃないですよ。
脚を痛めると、数日でも増える体重
もう一つ実業団時代に経験したウエイトコントロールに関する悩みは怪我をしたときの体重の増加でした。
30歳ごろまでは、大きな怪我もなく競技生活を過ごしてきましたが、20代後半になると1〜2週間程度の休養が必要になる小さな怪我はたまにあって、そういう時にはどうしても体重が増えてしまいました。
怪我を治すために練習量を落とすのですが、私の場合は2〜3日で簡単に1kgほど体重が増えてしまいます。
たかが1kgですが、私はその変化にとても敏感になっていました。
「体重計に乗るのが怖い」
「早く復帰しないと体重増えちゃうな」
「身体がむくんできたな」
などいろんなことを考えてしまい、気持ちばかりが焦る。練習ができているときはなんとかできていたメンタルコントロールも、怪我で走れないときはそれがとても難しかったです。
私も完璧な人間ではなく、むしろ弱点もたくさんあったので、この時のメンタルマネジメントは今振り返っても大きな課題だったなと思います。
当時は体重や練習の消化状況など”目先の結果”ばかり気になってしまってたのです。
怪我はそれくらい自分の気持ちをかき回すものだったので、しないに越したことはないですね。
ウエイトコントロールがうまくいくかどうかは怪我をしないかどうかだと言っても良いかもしれません。
また、怪我をしても割り切って考え行動できるかも非常に重要です。
ここがもう少し上手だったら私の競技生活もちょっとだけ違う結果が出ていたかもしれませんね。
怪我で悩んだ時の経験は以前ブログに書いたことがあるのでこちらをご覧ください。
2008年北京オリンピック選考レース(大阪国際女子マラソン)回顧録→こちら
2008年北京オリンピック選考レース(名古屋国際女子マラソン)回顧録→こちら
初めての疲労骨折の原因は・・・
現役生活22年の中で特に印象に残っている怪我が「疲労骨折」。
初めて私が経験したのは2011年の12月でした。
しかも、脚ではなく左の肋骨。
そのきっかけは中国の昆明で合宿をしていた時に遡ります。
合宿の最中に風邪をこじらせ気管支炎になってしまったのですが、結構ひどい症状で咳が止まりませんでした。
海外合宿では日本にいる時ほど気軽に病院にかかることができません。
苦しいと感じながらも合宿だし頑張らなきゃという思いの方が勝ってしまい、気管支炎でもお構い無しに練習は継続しました。
でも、練習で追い込めば咳き込むので、結構ギリギリの状態で練習をこなしていたと思います。
布団に入っても咳き込みやすく眠りも浅かったでしょうね。
そんな状態が 10日ほど続いたころ、自分の体の異変に気付きました。
合宿の最終日に行った1km×10のインターバルの練習を終えた時に鋭い痛みが背中に走ったのです。
合宿が終わった開放感のせいで、一瞬の出来事をあまり深刻に考えなかったのですが、帰国して4日後の練習中、今度は激痛が背中に走りました。
言いようのない痛みにただ事じゃないと察し、すぐに整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらったところ、なんと左肋骨の疲労骨折でした。
足の疲労骨折であれば練習のしすぎで負担がかかったんだなと納得(?)もできたと思うのですが、まさか上半身(しかも肋骨)に疲労骨折を起こすなんて想像もしていませんでした。
1ヶ月間の絶対安静、予定していたレースも全てキャンセル、非常に大きな怪我になってしまいました。
当時は32歳になっていたので、割と冷静にその事態を受け入れられたと思います。
様々な怪我の経験が気持ちを強くさせてくれたんでしょうね。経験はマラソンにおいて大きな武器になるなと思います。
ただ、怪我をしたことよりも「自分の体の変化」にショックを受けてしまいました。
というのも、丈夫なことが自慢でもあったのですが、今回の疲労骨折はその自慢の体を完全否定するような怪我で疑問しか浮かばなかったです。
実は、当時の悩みはウエイトコントロールだけでなく、それに伴う月経不順、そして貧血でした。
長年続けてきたウエイトコントロールと激しいトレーニングが確実に自分の体に蓄積され、疲労骨折につながったのではないかと今振り返ると思います。
32歳まで大きな怪我もなくトレーニングが続けられたのが逆に不思議だなとすら思います。
ウエイトコントロールに隠された負の連鎖は、すぐには気づきにくく蓄積されるもの。こうして自分の経験をまとめてきましたが、その難しさを改めて感じています。
まとめ
「20年間向き合い続けたウエイトコントロール」と題し、中学編、高校編、大学編、社会人編と書かせていただきました。
22年間競技を続けてきた中で感じたことを文字化していく中で、自分が経験してきたことに自分自身が一番驚いているかもしれません。
記事だけ読んでいると、私自身が陸上競技に対してすごくネガティブイメージを持っているように思われるかもしれませんが、そんなことないですよ。
身体へのダメージもありながら、ここまでできたのは、早いうちから大好きな陸上競技に出会えたからなんだと思っています。
もちろん、常にその気持ちを持って競技ができていたわけではありませんが、苦しい思いも大変な思いもしたからこそ、深さを知れたのだと思っています。
今、このような記事を書かせて頂いたのは、今、陸上競技を本格的にやっている選手、市民ランナーとしても走られている方が、少しでも走っていてよかったと思ってほしいなという気持ちが一番にあります。
とりわけ難しい内容の記事ですので、賛否両論あるかと思いますが、一つの参考にしていただけると幸いです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。